クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

本日のメッセージ(2010.9.5)
聖書 ルカ福音書 1:1〜4 福音を伝えたい


 八月は日本では、平和を考える時とされます。特に日本は原爆による被害を受けた国であり、広島や長崎では、二度と核兵器を使う戦争で人々が苦しむことがないようにと、平和を訴える集会が開かれています。そして被爆者の中には、核兵器による被害を訴える語り部と言われる人がおります。その人たちは、平和を強く願い、人々に自分の経験を語ります。被爆者が年老い語り部が少なくなっていると聞きます。


 ポーランドアウシュビッツという町があり、そこには強制収容所がありました。そこでナチスによるユダヤ人の大虐殺が行われました。今、そこではナチスの残虐な行為を展示する施設があります。ユダヤ人に対する人種差別がもたらした残虐な行為を二度と起こしてはならないと訴えかけています。


ところで今日の聖書には、こう書かれています。

「わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています」。

 「わたしたちの間で実現した事柄」を後の世の人々に伝えたいとの願いから、多くの人々が物語を書こうとしているとあります。「わたしたちの間で実現した事柄」とは、イエス・キリストの出来事です。「実現した」と訳されていますが、「成就した」とも訳されます。つまり、人間を救おうとする神の計画が、イエスにおいて成就したというのです。この救いは、実は、いつかその日が来ると待ち望まれていた救いでした。イスラエルの人々は救い主メシアの到来を待ち望んでいたのです。そしてメシアであるイエスが到来し、神の国を宣べ伝えました。


 人々の病を癒し、悪霊に憑かれた人をいやし、力ある業を行い、さらに人々を教えました。人々はイエスの語る権威ある教えに驚きました。この人こそ、待ち望んでいたメシアであると期待したのです。しかし、イエスは十字架で犯罪者として処刑され、死にました。そして三日目に復活しました。さらには、復活したイエス様が救い主であるとイエスの弟子たちは宣べ伝え始めました。そしてイエスを救い主とする信仰が世界に広まりました。


 このイエスの出来事、つまりイエスの物語が聖書にある四つの福音書に書かれています。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、皆、イエスのことを伝えたい、そう願って福音書が書かれました。そしてこの聖書をもとに、人々はイエスのことを語り継いできました。それは今日にまで及んでいます。二千年前の出来事が今日もなお語り継がれているのです。これはある意味、驚きです。


 戦争体験を語り継ごうとする時に言われることは風化ということです。いつの間にか、人々は忘れていくというのです。しかし、イエス・キリストの出来事は忘れ去られるどころか、これからもずっと語り継がれていくことでしょう。そう考えると、イエス・キリストの出来事というのは、驚くべき出来事であると言わなければなりません。全く風化しないのです。教会が歴史の中で、イエス・キリストを宣べ伝え続けてきました。そして金沢元町教会も120年以上にわたってイエス・キリストを宣べ伝えてきたのです。イエス・キリスト、この方は一体何者なのか、と思わずにはおれません。

「わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々」。

これはイエスの弟子たちのことです。別な言葉でいえば「使徒」と呼ばれる人たちです。使徒とは、派遣された人々の意味です。つまりイエス・キリストを宣べ伝えるために派遣された人々の意味です。イエスの弟子たちは、イエスと行動を共にし、イエスの活動を目撃し、その教えを聞きました。さらにイエスが逮捕され、十字架につけられる時、イエスを見捨ててしまいましたが、その弟子たちの前に復活したイエスは現れました。弟子たちは、イエスが待ち望んでいた救い主であることを知ります。そしてイエスこそ、救い主であると全世界に宣べ伝えるようにイエスから命じられ、世界に向けてイエスを宣べ伝えるようになります。


 弟子たちがイエスのことを伝え、彼らの語ったことをもとにして、イエスの物語を記録しようと多くの人が着手し、福音書というものが書かれるようになりました。この聖書には四つの福音書が保存されています。実はこれ以外にも福音書が書かれているのですが、理由があって聖書には含まれていません。福音書を書く、そこにはイエス・キリストのことを人々に伝えたいという並々ならぬ思いがあります。


 このルカもイエス・キリストを伝えたいという思いを強く持った人物です。彼は、テオフィロという人物、彼がどのような人物かはわかりませんが、彼にイエス・キリストを伝えたいと福音書を書いた理由を書いています。人々がイエスのことを伝えたいと考えたのは、イエスが救い主であるからだけではなく、イエスによる救いを自ら体験し、この救いを人々にも与えたいと思ったからに他なりません。


 悲惨な経験をした人々が二度とこのようなことを起こしてはならないと、被爆語り部核兵器の恐ろしさを伝えたいと思い、自らの体験を語ります。人種差別から来る虐殺の悲惨さをありありと伝えるために、アウシュビッツの展示施設があります。イエス・キリストの出来事は、救いの出来事ですから、これは喜ばしいものです。イエスの物語は福音書と呼ばれます。福音とは喜びの知らせ、との意味です。人々は、自分も救いを体験し、そのすばらしさを多くの人に分かち合いたいと願ったのです。「御言葉のために働いた」とは、イエスのことを伝えるために働いたということです。


 イエスの弟子のペトロ、彼はどのように救いを体験したのでしょうか。ペトロはイエスを裏切るという罪を犯しました。彼はイエスが逮捕される時、身の危険を感じ、イエスを見捨てて逃げます。しかしイエスのことが気になり、イエスの後を追い、イエスの裁判を遠くから見ます。すると「あなたはあの人と一緒にいましたね」と言われ、これを否定します。イエスと一緒だと知られたら、自分も捕まり、命を奪われるかもしれません。しかし復活したイエスに出会ったペトロは、迫害を恐れずに、イエスを堂々と宣べ伝える者となりました。


 高慢で無力なペトロは死に、迫害をも恐れずにイエスを宣べ伝える使徒に生まれ変わりました。主イエスを死者の中から復活させた神の力が、ペトロを生まれ変わらせたのです。罪を犯す古い自分が死に、新しい自分に生まれ変わるという体験をした者は、その救いの喜びを宣べ伝えずにはおれないのです。死を恐れるがゆえに迫害を恐れ、イエスを裏切ったペトロが、生まれ変わり、永遠の命を与えられ、死を越える希望を与えられて、迫害を恐れずに、イエスが救い主キリストであることを宣べ伝えたのです。死を越える希望を持つ喜びもまた、それを伝えずにはおれないのです。恐れから自由になる、これは本当に喜ばしいことです。人は恐れに縛られて生きているからです。


 パウロという名の使徒がいます。彼は、その当時の世界、つまりローマ帝国を旅行し、イエスは救い主キリストであると宣べ伝えました。彼は最初、イエスを信じる人々、つまりクリスチャンを迫害していました。しかし、復活したイエスに出会うという体験をし、イエスを宣べ伝える者となっていきます。クリスチャンを迫害した自分は、罪人の頭、つまり、自分以上に罪深い人はいないという罪の自覚を持ちますが、赦しを与えられ、イエス・キリストを宣べ伝える人に変えられていきます。


 信じる前の彼は、自分がユダヤ教の信仰者として、神の教えを誰よりも守っているという誇りを持っていましたが、イエスを信じた後は、そのような誇りはチリに等しいとしました。イエスが自分のうちに生きていることを誇りとしました。彼もまた古い自分が死に新しい自分に変えられて生かされていることを救いとし、喜びとしたのです。


 ルカ福音書のこの出だしを読んで、私たちもまた、イエスを伝えたい、イエスを信じる喜びの知らせ、福音を伝えたいと思わされるのです。人々はイエスの生涯、特にその最後の時期のイエスの活動を物語にし、福音書として残し、後代の人々に伝えようとしました。イエスの生涯の意味、それは福音です。そして神は、わたしたちの人生、わたしたちの生涯もまた、福音を伝える物語とされるのです。私たちの人生から、私たちもまたイエスのことを伝えることができるように神さまは、私たち一人一人を愛し、導いてくださるのです。


 たとえば、私たちには神から教えられた大切な教訓があります。

  • たとえば失敗した時、神から教えられたことがあるのではないでしょうか。
  • 苦しみ、落胆を味わうことを通して、神から教えられたことがあるのではないでしょうか。
  • 病気を通して、失望を通して、神はあなたに何を教えられたのでしょうか。
  • これらのことは、神からあなたに与えられたメッセージであり、あなたの物語として語ることができるのです。


 あるいは、イエス・キリストを信じることによって、あなたの人生がどう変わったのか。イエスを信じる前の自分はどうだったのか。信じた結果どうなったのか、これもあなたの人生の物語として語ることができます。クリスチャンホームに育った人は、こういう救いの経験がない、と言うかもしれません。そのことを引け目に思う必要はありません。むしろ小さい時から、神さまを知っていてよかったという話ができるのではないでしょうか。そしてイエスを信じる幸い、喜びを伝えることができるのではないでしょうか。


 あるいは、人生の色んな時期で、聖書の言葉に支えられたという話もできます。自分がどんな状況に置かれ、その時に与えられた聖書の言葉でどう支えられ、どう導かれたのか。そしてその結果どうなったのか。これもあなたの人生の物語として語ることができます。


 私には、そんな人を感動させられるような話はないという人もいるかもしれません。聖書にこうあります。

「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです」(ローマ1:16)。

 福音は、信じる者すべてに救いをもたらす神の力とあります。私たちが、今以上に、この神の力に期待して生きていくなら、神さまは、わたしたちのこれからの人生を神の恵みを語る物語る人生にしてくださいます。この神の力は、主イエスを死者の中から甦らせた神の力です。使徒パウロは、こう祈ります。

「また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように」(エフェソ1:19)。

 私たちには、神の恵みとして、神の大いなる力を知ることができるのです。神はそのことを喜びとなさるのです。わたしたちは神の力をどのように期待したらよいのでしょうか。困難な状況を私たちの願い通りに変えてくださると期待したらよいのでしょうか。


 先日NHKの「こころの時代」という番組で、ひとりの書家の女性が登場しました。書家、筆で字を書く人ですね。彼女はクリスチャンではありません。彼女は障害のある子どもを産みました。ダウン症の子どもです。娘と共に死のうと考えますが死ねません。やがて彼女は神に祈ります。娘の障害が治るように祈ります。必死に祈りますが、その願いはかなえられません。そして彼女は、自分が死んだ後、娘が自立して生きていけるように、娘に書を教えます。人に書を教えることによって生計を立てることができるように。そして実際、彼女の娘は人に書を教えることができる人へと成長するのです。そしてその娘と共に生きることを彼女は喜ぶようになります。


 ここには変えられた人がいます。娘と死のうと考えた人が、娘と一緒に生きるようになるのです。私は、ここに神の奇跡を見る思いがします。神の偉大な力、それは、私たちを生まれ変わらせる力です。

  • 私たちはとかく、自分を変えずに相手を変えようとします。神の力が働き、相手が変わるように祈ります。しかしその祈りは聞かれないことが多いのです。古い私が死に、新しい私が生まれる、そこに神の力が働き、相手が変わっていく。これが神のみ心であることが多いのです。
  • 自分を変えるよりも、自分をよく見せようとすることも、よくあることです。自分を変える、つまり悔い改めて悔い改めの実を結ぶよりも、よく見せようとする方が簡単です。でもそれは空しく、またごまかしでしかありません。


 神の力は、私たちを変える力なのです。罪に死んだ私たちをみ心に生きる人間に生まれ変わらせる力です。悔い改めの実を結ぶ時、私たちから神の恵みが香るのです。自分を変えようとする、それは時に辛いかもしれません。忍耐を必要とするでしょう。しかし、喜びが待っているのです。死んだ者を復活させる神の力を経験するという恵みが待っているのです。


 「わたしたちの間で実現した事柄について」とありますが、文字通り、ここにいる「わたしたちの間」で神の力による出来事が起こるのです。宣べ伝えずにはおれない喜びを受け取ることができるのです。このような喜びを互いに分かち合い、また多くの人々に伝えたいと思う。祈ります。


天の父

 イエス・キリストの物語がこの歴史の中で語り継がれてきました。私たちもまたイエス・キリストをこの世の人々に伝えるべく、福音を宣べ伝えてきました。天の父、あなたはわたしたちの生涯もまた、イエス・キリストを伝える物語として導かれることを信じます。
 わたしたちの生涯に起きる様々なことがイエス・キリストを宣べ伝える物語となりますように、また物語となるように、あなたのみ心を大切にしていきることができますように。わたしたちの生涯が神様の恵みを話す信仰者の物語となりますように、イエス・キリストの御名により祈ります。