クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

本日のメッセージ(2010.10.3)
聖書 ルカ 1:34〜45 幸いなるかな、信じる人


私たちは誰もが幸せになりたい、幸せに生きていきたいと思っていると思います。不幸になりたいと思う人はいないでしょう。では何が幸せなのか、どうすれば幸せになるのか、その答えは明らかではありません。


 「青い鳥」という童話があります。メーテルリンクという人の作品です。チルチルとミチルという兄と妹が幸せをもたらす青い鳥を探しに行くという物語で、結論としては、幸せは自分の身近にあるという話です。他方、上田敏訳『海潮音』という詩集の中にカール・ブッセの詩があります。

山のあなたの空遠く、『幸い』住むと人のいふ。ああ、われひとと尋(と)めゆきて、涙さしぐみ、かへりきぬ。山のあなたになほ遠く『幸い』住むと人のいふ」。

 山の向こうに幸せがあると人が言うので、一人で行くのは心細いので友人を誘って幸せを探しに行ったが見つからず、涙しながら帰ってきた。しかし人は、幸せは山のさらに向こうにあると言う。幸せはなかなか見つからないという詩です。


 聖書は、幸せについてどう言っているかというと、考えさせられます。聖書は、幸せな人はどんな人か、どういう人が幸せな人かを述べているんですね。
たとえばイエス様はこう言っています。「こころの貧しい人は幸いである。悲しむ人々は幸いである。柔和な人は幸いである」。旧約聖書詩篇には、色んな表現があります。

  • 「いかに幸いなことでしょう。背きを赦され、罪を覆っていただいた者は」(詩篇32)。
  • 「いかに幸いなことか。主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人」(詩篇1)。
  • 「いかに幸いなことか。主に信頼を置く人」(詩篇40)。
  • 「いかに幸いなことか。主を畏れる人。主の戒めを深く愛する人は」(詩篇112)。


 ルカによる福音書は、救い主の誕生の物語を最初に書きます。天使がおとめマリアに、「あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産む」と言います。自分はまだ結婚していないし、子を宿すということがどうしたら起こるのでしょうか、と尋ねるマリアに天使は答えます。「聖霊があなたに降り」あるいは「いと高き方の力があなたを包む」。神の働きによって身ごもるというのです。天使はさらに「親類のエリサベトも年取っているのに、男の子を身ごもっている」そして「神にはできないことは何一つない」と、マリアに信じるようにたたみかけるように語ります。そして、「お言葉通りこの身になりますように」とマリアが言うと天使は去っていきます。


 マリアは早速、親類のエリサベトのところに出かけていき、エリサベトは、「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」と言い、マリアを祝福します。マリアがエリサベトに挨拶したとき、エリサベトのお腹にいる子が喜び踊ったと書かれていますが、これは不思議なことです。今日は、エリサベトが言った言葉、

「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」

との御言葉に思いを向けたいと思います。


 ここで「幸いな人」と呼ばれるための条件があります。「主がおっしゃった」とある「主」は神さまのことです。ここでいう幸いな人は、神が語られたことを自分に関係のあることと受けとめる人です。神が語ることが自分に関係なければ、いくら神の語ることが実現したとしても、自分は少しも幸いにはなりません。


 プロゴルファーの石川遼選手が「次の試合で優勝します」と宣言し、彼なら優勝するだろうなと信じたとします。それが実現した場合、彼のファンなら喜びを感じ、幸せな気持ちになるでしょうが、彼に関心がなければ、別にどうということはありません。だから、私たちが「幸いな人」になりたいなら、神が話されることが自分に関係のあることと受けとめ、それが実現することを願い、信じることが必要となります。でも、神の語ったことを信じるからと言って、どうしてそれが幸いになるのでしょうか。


 旧約聖書の創世記には、アブラハムという人が登場します。彼はある時、突然神の声を聞きます。

「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、私が示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める」(創世記12:1〜2)。

 神はアブラハムの子孫が増えて、大いなる国民になること、アブラハムの名が有名になることを約束します。この約束はアブラハムの死後に実現するんです。その約束をアブラハムは信じて、神が示す地に向かって住み慣れた場所を離れます。でもこれが何で幸いなんでしょう。


 神は、エジプトで奴隷として苦しんでいるイスラエルの人々を救おうとされた時、「わたしはイスラエルの民を救う。あなたは民をエジプトから連れ出すのだ」とモーセに命じます。神は奇跡を行ってイスラエルをエジプトから救い出します。その神の奇跡を見ることは素晴らしかったかもしれません。しかし、神が与える約束の土地、肥沃な場所に向かう途中の荒野の旅で、イスラエルの民は何度となくモーセを悩ますのです。イスラエルの民を救い出すと約束した神の言葉を信じ、モーセは民を導くのですが、イスラエルの民の不平、不信仰に悩むモーセは幸いだったのでしょうか。


 私たちは、神の言葉が必ず実現することを信じる人は幸いな人です、という、今日の聖書の言葉を信じたいと思います。この「幸い」は理屈で説明できるものではなくて、理屈で説得できるものではありません。経験すればわかります。経験しなければわかりません。だからどうするか、です。聖書は私たちを、信じて幸いな人になるように招いているのです。


 ここに一つ問題があります。神の約束を信じ切れるかどうか、という問題です。ひとはしばしば自分は信じ切ることはできないだろう、と考えてしまうのです。そして神の語られる約束に関わることをやめてしまう、そういうことが起こりうるのです。何があっても自分は最後まで信じ切る、そう断言できる人はおりません。イエス様の弟子のペトロは、「あなたのことを決して裏切りません」と断言して、イエス様のことを裏切ったという聖書の物語は、私たちのことなのです。


 信じ切れないなら、私たちは幸いな人になれないのでしょうか。あのアブラハム。彼には子供がいませんでした。それなのに、大いなる国民になるということは子が授かるということです。これはうれしいことです。ですからアブラハムは、信じました。しかし10年の月日が流れても、子が授かりません。妻が子を産むことが信じられなくなり、彼は妻以外の女性に自分の子を産ませるのです。とりあえず、自分の子です。


 それから何年も過ぎ、アブラハムが99歳になったとき、神は言うのです。「あなたの妻があなたの子を産む」。その時アブラハムは、「百歳の男に子供が生まれるだろうか。90歳の妻に子供が産めるだろうか」といって、笑ったのです(創世記17章)。これは疑いの笑いです。


 しばらくして神は、「来年の今頃、あなたの妻に男の子が生まれているでしょう」というのです。今度は妻が疑います(創世記18章)。しかし神は真実な方です。約束を破ることはしません。アブラハム夫妻の子供が生まれます。そしてアブラハムの子孫は、今、イスラエル民族となっています。信仰の父としてアブラハムは仰がれています。


 神の語る言葉、約束の言葉を少しも疑わずに信じることはむずかしいのです。だからといって、自分は、「神が語ったことは必ず実現する」と信じ切れなかったから幸いにはなれないと思う必要はありません。疑うことがあったとしても、また信じればよいのです。信じ抜くとは、一度も疑わないことを言うのではなく、信じることを捨てないことです。疑い、不信仰に陥ったとしても、また信じていくのです。

「戦わずして土俵を降りるのはつまらんぞ」

とは<ゲゲゲの女房>に登場した水木しげる氏の言葉です。一回の失敗で、自分は教師に向いていないと教師を辞めようと考えている娘への言葉です。疑いとの戦いを通して、信仰は堅固なものになっていくのです。


 モーセに率いられてエジプトを脱出したイスラエルの民のことを考えることも有益です。イスラエルの民は、神に導かれ、肥沃な土地を目指して旅をします。荒野を旅します。すると食物がなくなり、飲み水がなくなるという危機に何度も直面します。イスラエルの民は、この荒野で我々を死なせるつもりなのか、とモーセに、神に文句を言います。こんなことならエジプトにいた方がよかったとさえ呟くのです。


 しかし神は、憐れみ深い方です。そんなイスラエルの民に食物を与え、飲み水を与え、旅を支え、導くのです。私たちの信仰生活は、神の憐れみによって支えられているのです。自分の強い信念が信仰を支えるのではありません。自分は神の言葉を信じ切れるかどうか、などという問いは、愚かな問です。信じ切れないのが人間だからです。自分は信じ切れるかのように考えるのは傲慢です。ですから、私たちはこう告白するのです。

「信じます。信仰のない私をお助けください」(マルコ9:24)。

 大事なのは、信じることを始めることです。信じることをあきらめないことです。信じるとは、転んだら立つことです。そのようにして信じる人が幸いだと聖書は言うのです。


 「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じる」とあります。つまり神が語ることは、約束です。神は私たちに約束をなさるのです。アブラハムに対してはあなたを大いなる国民にすると約束し、モーセに対してはイスラエルの民をエジプトから救い出すと約束し、肥沃な土地に連れて行くと約束されました。私たちは神の約束の言葉を聞くのです。


 神は、聖書を通して、私たちに語りかけてくださいます。イエス様による救いを述べた言葉があります。

「イエスを信じる人は義とされる」。

 これは神の約束であり、これは信じた私たちの身に実現しています。私たちは罪の報いを受けることを恐れる必要は今やありません。赦しを受け、義とされているからです。


 イエスを信じる私たちが天国に迎えられる、これも神の約束です。これは私たちが生きている間には実現しません。アブラハムが自分の生きている間には実現しない約束を信じたように、私たちもまた、生きている間に実現しない神の約束を喜んで信じるのです。そして、死の恐れから自由にされ、幸いな人生を送ることもできます。私たちが「信じる」と言うとき、それは神の存在を信じると言うより、神の約束を信じることだといった方が正確です。


 聖書には、神の命令もあります。神の命令、それは、私たちがその命令を実行できるという約束を含みます。それは、神の助け、神の恵みになしにはできませんが、神の助けを受けるとき、言い換えると聖霊の励ましを受けるとき、私たちは神の命令を実行できます。


 神の命令というのは、それを守ることによって、自分の信仰を誇るためのものではありません。神の命令というのは、それを守れずに、自分の信仰を卑下するためのものではありません。神の命令に従う時に、私たちの人生には新たな一ページが加えられるのです。たとえば「愛しなさい」「赦しなさい」「寛容になりなさい」。これらの命令を実行していく時、人間関係の変化が起きていきます。新しい人間関係が築かれる中で、私たちの生活が変化していきます。


 「愛するのはむずかしい」「赦すのはむずかしい」・・・。むずかしいと言い続けていれば、何も変化は起きません。しかし、神の命令を実行すれば、そこに変化が生じます。それは私たちにとって祝福になります。


 私たちは今も聖書から、神の約束、神の命令を聞くことができます。神の命令は、祝福であることを知ることも大切です。神の命令は、イエスを信じる者にとっては、罪を責めるものではありません。

「いかに幸いなことか。主を畏れる人。主の戒めを深く愛する人は」(詩篇112)。


神の約束の言葉を全部、本気で信じてよいのか、と疑問を持つ人もおられるでしょう。「求めなさい、そうすれば得られる」そう信じて祈ったけれども、祈りがかなえられない。だから自分が信じられる神の約束だけを信じ、自分が実行できる神の命令だけを実践する、それでいいのではないか、と言う人もおられると思います。


 神の祝福というのは、人間的な限界を突破するときに与えられるものです。この世でも成功する人は、ほとんどが立ちはだかる壁の前に倒れ、しかし、あきらめずに壁を越える経験をしています。神は真実な方です。嘘つきは、本当のことを言ったり、嘘を言ったりして人を惑わすのです。神は真実な方であり、私たちが全身全霊をもって信じるに価する方です。


 本気で信じて与えられる祝福を分かち合い、信じることを喜び合う信仰者の交わりを豊かにしたいと思いませんか。神の約束を信じる人は一歩を踏み出します。マリアもエリサベトのもとに出かけました。信じて一歩を踏み出しましょう。聖書から、神の約束を聴きましょう。祈ります。

祈り

 天の父、あなたが真実な方だと信じます。あなたは私たちを愛し、私たちが幸いになることを願っておられる方です。あなたは私たちに約束を与え、従うべき戒めを与えてくださいます。ここに幸いな人になる道が備えられていることを信じることができますように。
 あなたの真実を信じる者となれますように。あなたの真実を信じる人に祝福が豊かにありますように。
イエス・キリスト