クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

本日のメッセージ(2010.10.17)
聖書 ルカ 1:57〜66 賛美する心


私たちは礼拝の中で神さまを賛美します。神さまを賛美することは何も賛美歌を歌うだけではなく、祈りの中で賛美することもできます。たとえば祈る時、

「天の父なる神様、あなたの御名を賛美します」

祈りを始めることもあります。


 賛美歌は、多くの人の心を慰め、また励まします。あるいは神さまに向かって賛美をすることが、私たちの力になる時もあります。自分にとって大切な讃美歌のことを、愛唱讃美歌ということがあります。キリスト者には愛唱賛美歌が何曲かあるのではないでしょうか。礼拝で讃美歌を歌うことを楽しみにしている方も多いと思います。その時、私たちは、賛美する心でもって賛美していると思います。ただ歌うことを楽しみ喜ぶのとは違った心。賛美する心。それは一体何なのでしょうか。


 エリサベトは男の子を産んだと書かれています。ルカ福音書は洗礼者ヨハネと呼ばれる人物とイエスの誕生の次第を並べて書いています。

  • 天使がヨハネの誕生を祭司ザカリヤに予告し、その後、マリアにイエスの誕生を予告します。
  • ヨハネの誕生物語の後にイエスの誕生物語が続きます。
  • マリアが神を賛美し、ザカリアも神を賛美します。
  • 1章の終わりには、「幼子は身も心も健やかに育ち」とヨハネの成長が述べられますが、2章40節には、「幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた」とイエスの成長を述べています。
  • さらに、今日の聖書で、66節では、ヨハネの誕生の次第を聞いた人々は、そのことを心に留めたとあり、天使から救い主が生まれたと聞いて尋ねてきた羊飼いの言葉をマリアは心に留めたとあります。
  • ルカは、ヨハネとイエスについて同じような語り方をしています。


 今日の聖書は、まずヨハネが誕生したことが書かれています。近所の人や親類の人たちが、ザカリア夫婦のもとに来て祝いの言葉を述べ、共に喜んだことが書かれています。子供の誕生はただでも喜ばしいことです。年老いた夫婦、この誕生を待ち望んでいた夫婦の場合、この誕生は、大きな大きな喜びです。ザカリア夫婦の場合、神が彼らを顧み、神の祝福として子が誕生しました。神が彼らを憐れみ、子を授けたので、人々は喜び合ったと書かれています。


 8日目に、人々はヨハネに割礼を施そうとしました。割礼というのは、男性の性器を覆っている皮、包皮を切り取ることです。これは、イスラエルの人にとっては大切な儀式でした。これは、彼らが神の民であることを示す大切なしるしでした。神さまは昔、アブラハムに「あなたとあなたの子孫は、生まれた子供に割礼を受けさせなさい」と命じました。それでヨハネも割礼を受けることになりました。


 割礼を施すとき、その子供に名をつける習慣があったようです。子供に名をつけるとき、父の名、あるいは祖父の名、あるいは、親族のだれかの名をつける習慣があったようです。ですから、親族にその名を持つ人がいない名前、ここではヨハネと名付けることをザカリアとエリサベトが主張したとき、人々は驚きました。そしてザカリアが板に子供の名前をヨハネにすると書いたとき、彼は口がきけるようになり、神を賛美したとあります。子が授かったことを神に感謝するのではなく、神を賛美したのです。


 実は、天使が彼に、あなたの妻は子を産むと告げたとき、彼は信じられなかったのです。もう年取っていたからです。どうしたら信じられますか、と疑ったので、口がきけなくなったのです。天使が言ったとおり、子供の名をヨハネとするとザカリアが主張したとき、彼は再び話すことができるようになりました。


 ザカリアが神殿での奉仕を終えたら口がきけなくなっていました。年取ったエリサベトが妊娠しました。名前の付け方が普通と違っていました。口がきけるようになったザカリアは神を賛美しました。このようにヨハネの誕生については、不思議なことがいろいろありました。そこでユダヤの山里中で人々はヨハネの誕生のことで語り合ったと聖書に書かれています。


 ヨハネの誕生の次第の物語を読んで、まず思うことは、神さまのおっしゃったことは必ず実現するということです。神さまは真実な方で、約束されたことを必ず実現させる方です。ですから聖書を通して、神さまの約束を知ることは、私たちにとって、大きな励ましとなります。このことについては、これにとどめておきます。


 今日は、ザカリアが、神を賛美したことに注目したいと思います。私はこの聖書の箇所を何度も読んでいます。何回も読んでいると、ああ知っている、と思って何も考えないのです。しかし今回は、説教の準備ということもあって、何回も読みました。そしてふと思ったのです。なぜ、ザカリアは感謝しないで、賛美をしたのだろうと。


皆さんはどうかわかりませんが、

  • 神さまが祈りに答えてくださったら、私はまず、神さまに感謝します。
  • 思いがけない神さまの恵みが与えられても、神さまに感謝します。
  • 一日の終わりに、一日を振り返って神さまに感謝をします。ザカリアは、感謝の言葉を語らないのです。彼は神を賛美したのです。


 感謝も賛美も、神さまのしてくださったことに対する私たちの応答です。「神さま、あなたがこうしてくださり、ありがとうございます」。これが感謝です。私はあなたに感謝します、ということです。「神さま、あなたがこうしてくださり、あなたは素晴らしいです」。これが賛美です。賛美の場合は主語が神です。神さま、あなたは素晴らしい。感謝の場合は、私が主語です。私はあなたに感謝します。


 賛美も感謝も神さまに向けられたもので、どちらも大切なものです。しかし、私たちが祈るとき、賛美と感謝、どちらを口にすることが多いのでしょうか。あなたはどうでしょうか。感謝することは、私たち自然にできるのですが、どうも賛美は口にすることが少ないのではないでしょうか。祈りの最初に、神さまを賛美しますと言うかもしれません。それは祈る時の決まり文句になっているかもしれません。


 一度自分の祈りを紙に書いて、賛美と感謝、どちらを口にすることが多いのか、比較してみると良いと思います。私自身、振り返ってみると、祈りの最初に神さまを賛美しても、賛美はなかなか後には出てこないように思います。一日の終わりは、感謝の言葉が何回も出てくるとして、やはり、賛美は少ない。なぜ、賛美が少ないのか、と考えます。皆さんはどうでしょうか。


 聖書を見てみます。出エジプト記15章。イスラエルの民がエジプトを脱出しましたが、エジプトの軍隊が追いかけてきます。前は海。後ろがエジプト軍。モーセが杖を持った手を上げると、なんと海が二つに分かれ、海の中にできた道を歩くことができます。追いかけてきたエジプト軍が、その道を通るや、水の壁が崩れて海は元に戻ります。エジプトの軍隊はおぼれてしまいます。鮮やかな、驚くべき神の救いです。


 この救いを経験したとき、イスラエルの人たちはどうしたのでしょうか。彼らは神を賛美したのです。その賛美が主エジプト機15章にあります。感謝の言葉は一つもなく、神をたたえる言葉のみが続きます。なぜ感謝の言葉がないのか。なぜ神を賛美する言葉が続くのか。詩篇には感謝も賛美も沢山ありますが、賛美が多いことを思わざるを得ません。マリアも神を賛美し、ザカリアも神を賛美します。


 私たちは、神を賛美するよりも、感謝することの方が多いのではないでしょうか。もしそうだとすると、そこには問題があるのではないでしょうか。感謝の主語は、私です。私がうれしい、だから、私が神に感謝をする。主語は私。私がどういう状態にあるのかに目が向いている。神さまが私を好ましい状況に導いてくれたので、私は感謝するのです。


 賛美する場合、私の気持ちよりも、神に目が向いている。「神さまはこういうことをしてくださった。だから神さまは素晴らしい」という反応が賛美。「神さまはこういうことをしてくださった。だから私は感謝する」。この反応が感謝。


 人間の心は、どうしても自分に向きます。それは仕方のないことです。私たちは罪人だからです。だからキリスト者は、意識して神に目を向け、神に生かされていることを思い、生かしてくださる神を見上げるようにするわけです。そして自由な心から、賛美が生まれます。


 目が自分の心に向いていると、状況が良くなれば神さまに感謝するのに、悪くなると、神に対する不満が出てくる可能性があります。

  • 祈っているのになぜ、神さまは、
  • まじめに礼拝をささげているのになぜ神さまは、

と自分の願い通りにならないことに対して、神を恨み不平を言いかねないのです。しかし目が神に向いているとき、思い通りにならないとき、神さまのみ心はどこにあるのか、神さまの計画は何なのか、と考えることができます。


 感謝する心、それは大切です。しかし感謝する心に神への賛美が伴わないと、私たちの目は神を見上げず、自分の心しか見ないことになりかねません。熱心に誠実に感謝をささげても、それが自己中心のものになりかねないのです。神をたたえる賛美の心から出る感謝が、混じりけのない感謝の心になるのです。

、◇

 神を賛美する心、それは大切な心です。神さまが人間を造り、まだ堕落する前の人間に備わっていた心です。神を賛美することは、私たちの人間性を回復に導きます。私たちの心の罪を清める働きをします。

  • 日々の生活の中で、人をほめることと、批判すること、どちらが多いでしょうか。
  • 子供をほめることと叱ること、どちらが多いでしょうか。

 おそらくほめることは少ないのです。ほめるには努力が必要だからです。良いところを見つける、良いところに気づく、そういう努力が必要です。そして相手をほめる、そこには相手を本当に大切に考える心があります。大切に考えるから良いところをほめます。批判したり、叱ることには努力はいりません。相手の欠点はすぐに目につくからです。そしてそれを口にするのです。相手のために叱るといっても、相手が自分にふさわしい存在になっていないことへのいらだちから怒ることが多いものです。


 神を賛美する心、それは神を大切にすることです。人をほめる、それは人を大切にすることです。神を大切にする心と人を大切にする心は一つです。相手を大切にする心、相手を愛する心だからです。


 そして賛美は、自由な心を持つ人ができることです。人をほめることも自由な心を持つ人ができることです。束縛された心は、自分に目が向いているからです。賛美する心は自由な心、神を本当に大切に思う心。それは尊く、大切なものです。神さま、あなたを賛美する心を与えてください、と祈りつつ歩んでいきましょう。祈ります。


祈り
 天の父、私たちに、あなたを賛美する心を豊かに与えてください。私たちの心があなたを見上げることができますように。自分の心が満たされることよりも、私たちを生かしてくださる神さまを見上げることができるように導いてください。そして神さまを賛美するこことがいかに自由で喜びに満ちたものであるか、知ることができますように。イエス・キリストの御名により祈ります。