クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

本日のメッセージ(2010.10.24)
聖書 ルカ 1:67〜80 ほめたたえよ主を


 祈るときに、私たちは神さまに感謝します。同時に、神をたたえてみるのもよいことです。たとえば「神さま、あれやこれやを感謝します」と感謝するときに、「神さま、あれやこれやのゆえに、あなたをたたえます」と神を賛美するのです。これを続けると私たちは確実に、神さまを見上げる意識が深まり、私たちの内に変化が起きると思います。自分よりも、神さまに意識を向けるようになり、神との結びつきが深まると信じます。


 賛美歌を歌って神をたたえることも大切だと思いますが、自分の言葉で、賛美の祈りを捧げることも大切です。自分がどんな言葉で神さまを賛美するのか、挑戦してみてはどうでしょうか。


 ザカリアですが、先週は子供が生まれ、子供に名前をつける喜ばしい場面を聖書で読みました。彼は、神さまから子供を授かりましたが、神に感謝の祈りはささげず、神をほめたたえました。そして今日の聖書でも、彼は聖霊に満たされて神を賛美しました。

「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を」

とザカリアは大胆に神を賛美しました。68節以下で、神を賛美する理由を述べています。


 ザカリアは、神がイスラエルの民を救ってくださるので、神をたたえています。神は「救いの角」を起こされたと語ります。「角」は力の象徴です。だから神は力強い救い主を与えてくださったと賛美するのです。
 しかも、これは、神の約束の実現であると述べます。70節では、

  • 「昔から聖なる預言者たちの口を通して語られたとおりに」。神は預言者たちに語り約束されたとおり、約束を実現して今、救い主を与えてくださったと語ります。
  • さらに「主は我らの先祖を憐れみ、その聖なる契約を覚えてくださる」と述べます。神は先祖と交わした契約を覚えていてくださり、救い主を与えてくださったと語ります。
  • さらには、「アブラハムに立てられた誓い」の通りに、と神は約束を実現してくださる真実な方であると繰り返し述べています。ザカリアは、神がイスラエルの歴史の中で働いてくださる神であることをほめたたえているのです。神は歴史の中で働かれる神なのです。「神が歴史の中で働かれる」ということは、時間をかけて思い巡らす価値のあることです。マリアも歴史の中で働く神を賛美しました。1章51〜53節。

「主はその腕をふるい、思い上がる者を打ち散らし、権力のある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良いもので満たし、富める者を空腹のまま追い返されます」。

 イスラエルという国は、大国の支配を受ける期間が長かったので、イスラエルの民は、その支配からの解放を、自由を待ち望みます。神は思い上がる者を打ち散らし、権力のある者をその座から引き降ろし、とマリアは神の救いを賛美しました。


 ザカリアも同じです。69〜73節で「我ら」という言葉を繰り返し、神は、我らを救ってくださったと繰り返します。イスラエルは敵に支配されてきたが、神は今、その敵から我らを救ってくださる、神をほめたたえよと賛美します。


 ある人は言うかもしれません。神はなぜ、もっと早くイスラエルの民を救わないのだろうか。イスラエルの民が救いを求めたらすぐに救えばいいのに。旧約聖書の最後にマラキ書があります。旧約聖書のほとんどは、BC5世紀以前に書かれたものです。つまりイエスが生まれる前の400年近く、神は黙っているのです。神の言葉を語る預言者は登場しません。その400年の間、イスラエルペルシャギリシャ、シリア、ローマに支配されているのです。


 つまり独立と自由を味わうことができないでいるのです。神は敵の支配から救ってくださるとザカリアは述べますが、400年者間、神は沈黙し、イスラエルを助けてくれないように思えるのです。神は真実な方で必ず助けてくれる、そんなのはきれい事だ、建前だと言うこともできるのです。


 旧約聖書出エジプト記があります。第一章で、イスラエルの民は、奴隷として苦しい生活をしていたと書かれています。神がイスラエルの民をエジプトの苦しみから救い出したのはいつでしょうか。80年後です。80年の間、イスラエルの民は苦しみ続けたのです。なぜ神はもっと早く救わないのか。80年ということは、苦しみの中で生まれ、苦しみの人生を送り、苦しみの中で死んでいった人々がいたということです。


 私たちだって、神に何とかしてほしいと助けを求めて祈ってもなかなか解決が与えられない、いつになったら神は願いを聞いてくれるのだと思うことがあります。いつの間にか、神に期待することをやめ、失望が、信仰者の心を支配することだってあるのです。挙げ句の果てには、信仰に希望を持てず、信仰を捨てることだって起こりうるのです。


 マリアやザカリアのように、神は救いを与えてくださる、神をほめたたえよ、と宣言されても、その通り!と心から共感できないのです。その証拠に、私たちの口から、感謝の言葉は出てきても、神を讃える言葉は少ないのです。賛美の言葉は、いつの間にか、建前の言葉、おきまりの言葉になってしまっているのです。


 しかしマリアやザカリアの賛美は真実な賛美です。エジプトからの救いは80年後でした。アッシリア、バビロン、ペルシャギリシャ、シリア、ローマの支配は数百年に及びました。イスラエルの人々は、神の救いを待ち続けたのです。民の中には、いつ来るのかわからない神の救いを待ち望むなんて意味はない、と信仰を捨てた人もいるでしょう。しかし、待ち続けた人々がいるのです。なぜ待ち続けることができたのか。


 それは、神が歴史の中で働かれると信じたからです。そして、神が働かれるには「時」があることを知っていたからです。神は、神の計画の中で、働かれることを信じていたのです。ただ人間には、いつ神が働かれるのか、わかりませんから、「時」の来るのを忍耐強く待つのです。旧約聖書のコヘレトの言葉の3章には、

「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められたときがある」。

 これは信仰の告白の言葉です。神の時が来る前は忍耐強く待つのです。神の時が来るのを信じるのです。希望を持って待つのです。イスラエルの人々はそのような信仰に生きたのです。いよいよその時が来たことを知ったマリアとザカリアは、共に神をたたえたのです。


 ですから、神を信じるとは、歴史の中で働き、歴史を導く神を信じるということなのです。聖書が告げる神は、そういう神なのです。


 信仰に生きる人は沢山います。キリスト者以外にも、色々な信仰があります。神を信じる人の中には、神と自分との関係しか考えない人も多いのです。神は私に何をしてくれるのか、それしか考えないのです。神が自分のために何かをしてくれる、そのためには、自分も神のために何かをする、という信仰です。お布施を献げ御利益を期待する信仰は、神と自分の関係しか考えない信仰の典型です。


 こういう信仰の場合、忍耐して待つというのは意味がありません。自分に利益を与えてくれない神を信じる意味はありません。キリスト教は御利益信仰ではないと言われますが、自分の願い、期待が答えられないと、信じることの意味がわからなくなることもあるのではないでしょうか。


 聖書が教える信仰は、私たちの生活に神が関わってくれるのを期待する信仰ではありません。その逆です。神は歴史の中で働き、歴史を導く神です。その神に私たちがいかに関わって生きるのか、それが聖書の告げる信仰、私たちの信仰なのです。
私たちの人生に困難なことが起きます。信仰者にも試練や困難は訪れます。そして神に解決を求めて祈ります。解決がなかなかもたらされない、神が助けてくれないように思えることもあります。神はなぜ、私に関わってくれないのかと不満、嘆きが生じます。


 私たちの信仰は、神の計画に私が、私たちがいかに関わっていくのかを考える信仰です。神には計画があります。神の計画の中で、私の問題、私たちの問題はどのように位置づけられるのか。問題は、神の計画の中で、神に用いられる形で、解決していくのです。


 問題を抱え続けるのはもういやで、早く解決してほしいとは考えない。早く解決されることを第一には考えない。自分の問題を通して、神の御心がなされ、解決されることを期待していく、そのような解決が与えられることを信じていく、それが聖書が教える信仰なのです。


 神の時があり、私の問題が神に用いられるのです。とすれば、私は何をしたらよいのか、解決のために何をすることを神は求めておられるのか、という発想の転換ができます。これが悔い改めです。聖書がヒント、導きを与えてくれると信じて聖書を読んで行くのです。このようにして神に期待していくとき、神に対する賛美が生まれるのです。


 ザカリアは聖霊に満たされて声を上げました。「ほめたたえよ主を」。しかし神の救いはまだ目に見える形では何も始まっていません。ヨハネは生まれましたが、まだ赤ん坊です。救い主となるイエスは、まだマリアの胎の中にいます。神は我々を救ってくださる、そんな断言をしていいのでしょうか。救いの出来事はまだ起きていないのです。


 神の計画には時があります。時が来れば実現するのです。だから前もって神をたたえることができるのです。ですから、聖書は信仰とは何であるかについてこう教えています。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、まだ見ていない事実を確認することである」(ヘブル11:1)。まだ起きていないことを起きたことと確認する、それが信仰だというのです。この信仰に生きているので、ザカリアは、大胆に神を賛美しているのです。それだけではなく、「ほめたたえよ」と人々に共に賛美するように呼びかけているのです。


 ザカリアの賛美の後半で、子どものヨハネの働きについて述べています。「主の民に罪の赦しによる救いを知らせる」。ヨハネは、罪の赦しを宣べ伝えるのです。


 ザカリアは、救いを二つの面から述べています。一つは敵からの救い。今ひとつは罪からの救いです。イスラエルを支配する敵からの解放、自由という救い。そしてイスラエルの民の心にある罪からの救い。


 旧約聖書を読むとわかるのですが、イスラエルが神に背き、不信仰に陥ると、敵が攻めてきて、イスラエルは苦しみを味わうという出来事が頻繁に起きています。敵の侵略によって苦しむことは、偶然の出来事ではなく、イスラエルの不信仰が引き起こしたという面があるのです。蒔いた種を刈り取るということです。
ですから、罪からの救いがないと、敵からの救いは不完全で、再び繰り返すことになりかねないのです。


 しかし、苦難、苦しみは、すべて罪の結果である、不信仰の結果であると言うこともできません。ある時イエスの弟子たちが、道を歩いていたとき、盲人を見ました。弟子たちはイエスに、「彼の目が見えないのは、だれの罪のせいですか。本人ですか、それとも両親ですか」と聞きました。それに対してイエスは、誰のせいでもない、神の業がこの人に現れるためだとお答えになりました。イスラエルの苦しみは、イスラエルの罪の結果起きたという面と、神の御業が現れる面があるということができます。


 そして、私たちの生活においても、いろいろな問題、苦しみが起きてきます。これらは、人間が犯す罪の結果という側面もあるし、また神の御業が現れるという面もあります。そもそも神の計画とは何でしょうか。この歴史における神の願い、神の御心、はこれです。

「すべての人が救われて真理を知るようになることである」(テモテ一2:4)。

すべての人が救われて真理を知るようになること、それは言い換えると、すべての人がまことの神を知ることです。私たちが抱える問題、悩み、それは、私たちが願うような形で、私たちが期待するように早く解決するとは限りません。しかし、その問題の解決は、人々が神を知るようになることにつながるというのです。それが神の御心であれば、まさに神の時があるのです。


 キリスト者は、神の時があることを信じ、神の解決を信じます。だから、解決を信じ、神をほめたたえることができるのです。「神は我らの救い主なる神である。神をほめたたえよ」。


 私たちの生活は、人間の罪と神の御業が混じり合っているのです。罪の結果としての悩みや困難があるのです。そして同時に、神の御業が現れるために、問題や苦しみがあるのです。すべての人が救われて神を崇めるようになる、そのことのために私たちの人生が用いられるのです。このように考えたこと、ありますか。

「ほめたたえよ主を」。

祈り
イエス・キリストの父なる神、あなたをほめたたえます。すべてのことには時があり、あなたのご計画の中で、物事が進んでいくことを教えてください。あなたが歴史の中で働く方であり、私たちの人生も、あなたの時間の中にあることを教えてください。私たちの人生に起きる一つ一つのことが決して無駄ではなく、あなたによって用いられることを教えてください。そして生きて働くあなたを賛美する者としてください。イエス・キリストの御名により祈ります。