クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

本日のメッセージ(2010.11.21)
聖書 ルカ2:21〜40 万民を照らす光


 今日は召天者を覚えて礼拝を献げます。私たちは死ぬことを天に召されるといいます。神さまに「来なさい」と呼ばれて天に行くという理解です。天のことを神の国と呼びます。
私たちは誰しも、平安な心で、神に召されたいと願います。そして今日の聖書には、まさに平安な心で神に召される人が登場します。シメオンという老人です。彼は、「主よ、今こそあなたは、このしもべを安らかに去らせてくださいます」と語ります。彼は、平安の内に死ぬことができると述べるのです。平安の内に死ぬことができる、これは幸いなことだと思います。なぜ彼は、幸いな思いになれたのでしょうか。思いがまずそこに向きます。

 シメオンは、正しい人で信仰があついと紹介されています。そしてイスラエルが慰められるのを待ち望んでいたとも書かれています。彼もまたメシア、救い主の到来を待ち望んでいた人でした。彼は待ち望んでいただけではなく、メシアに会うまで死ぬことはないとのお告げを受けていたとあります。聖霊のお告げを受けるというのは、神からそう言われたという意味です。そして実際に、エルサレム神殿で、赤ん坊のメシア、イエスと出会い、腕に抱き、神をたたえます。


 そして言うのです。「私はこの目であなたの救いを見たからです」(2:30)。シメオンが見たのは、赤ん坊のメシアです。成長したメシアの活躍を見たわけではありません。メシアがもたらす救いを見たわけではありません。しかし彼は、「あなたの救いを見た」と言い、「主よ、あなたは安らかに私を去らせてくださいます」と述べます。


 彼は、赤ん坊のメシアに会っただけで満足しています。その赤ん坊が本当にメシアだと確信して、疑わないわけです。彼が神の霊に導かれて神殿に入り、そこで出会ったわけですから、その赤ん坊が将来、メシアとしての働きをすると確信するわけです。彼はそれで満足し、世を去ってもいいと語るわけです。
実はここに信仰者の生き方の特徴が現れていると思います。つまり、

「すでに」と「いまだ」の間を生きる

ということです。


 「すでに」と「いまだ」の間を生きる、あまり聞いたことのない表現だと思います。そこで具体例を出します。イエス祈りについてこう語っています。「祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすればその通りになる」(マルコ11:24)。信仰者が祈り求めたら、その願いが「いまだ」かなっていなくても、「すでに」得られたと信じなさいというのです。まだ実際にはかなえられていなくても、すでに得られたと考えよ、というのです。「いまだ」現実にはなっていなくても、「すでに」現実になっていると考える、こういう態度をイエスは教えているわけです。


 昔、イスラエルの民がエジプトで奴隷として苦しんでいました。神の助けにより、彼らはエジプトを脱出し、神が与える土地、乳と蜜の流れる豊かな地へ向かって旅をしました。神は、イスラエルの民がまだ奴隷で苦しんでいるとき、私はあなたたちを救い、乳と蜜の流れる土地に連れて行くと約束したのです。そしてイスラエルの民は、エジプトを脱出し、その土地を目指す旅を始めます。その旅で困難が生じるとイスラエルの民は、どうしたかというと、エジプトにいた方が良かったとか、ここで私たちを死なせるつもりなのか、と文句を言ったりするのです。彼らは、神に助けを求めようとしないのです。


 神が、乳と蜜の流れる肥沃な土地に連れて行くと約束したのなら、それは確実なのです。「いまだ」その土地に着いてはいませんが、「すでに」神が約束しておられるので、その土地に着くのは確実なのです。だから困難にあっても、希望をもって神に助けを求めることができるはずなのです。必ずつくと信じて神に助けを求める、それが信仰に生きるということです。


 新約聖書ヘブライ人への手紙の中で、信仰についてこうあります。

「信仰とは望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」(ヘブライ11:1)。

信仰とは、まだ見ていない事柄、将来起きる事柄を既に起きたことと確信することだ、確認することだというのです。「いまだ」見ていないこと、起きていないことを「すでに」見たと考えて生きるのです。「いまだ」と「すでに」の間を生きるこれが信仰です。


 シメオンは、救い主が救いの働きをするのはまだ見ていません。しかし赤ん坊を見ただけで、救いを見たと考え、主が遣わすメシアに会ったと考えるのです。


 「すでに」と「いまだ」の間を生きる人の特徴は希望です。すでに祈りはかなえられたと信じる、だから希望があります。神が約束の土地へ連れて行くと約束された、だから希望があります。まだ実現していないが必ず実現すると信じる、それが希望を抱く信仰者の姿です。神の約束に生きる信仰者のありようです。私たちが「すでに」にしっかり立つなら、思い煩いも、疑いも消えていくでしょう。


 イエスを信じた私たちは、罪の赦しと永遠の命の約束を信じ、神の国を確信し、神の国を目指す旅をし、平安の内に死を迎えるのです。そのようにして天に召された先達のことを私たちは今日覚えているのです。


 このシメオンは、生まれて間もない幼子を抱きながら、「これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす光」と述べました。その幼子は将来、すべての人に救いを与える救い主となるし、万民を照らす光になると述べたのです。


 この言葉を聞いて、父と母は驚いたとあります。父と母とは、イエスの母マリアとその夫ヨセフです。何を驚いたのでしょうか。救いが異邦人、つまりすべての人に及ぶという内容に驚いたのではないかと思います。当時のイスラエルの人たちはメシア・救い主の到来を待ち望んでいましたが、それは、イスラエルを救うメシアです。外国の支配からイスラエルを自由にし、独立をもたらすメシアです。救いはイスラエルの救いなのです。ところが、シメオンは救いはすべての人に及ぶと述べたので、マリアとヨセフは驚いたのだと推測します。


 そこで思うことは、ではなぜ、シメオンは、救い主の働きが異邦人にまで及ぶと考えることができたのか、ということです。


 このシメオンについては、聖霊が彼にとどまっていたと、書かれています(2:25)。シメオンは、神の霊に導かれる人でした。霊に導かれるとは、彼は聖書を学び、深く理解していたということです。旧約聖書を注意深く読むなら、やがて登場する救い主がどんな働きをするのかが、わかります。


 シメオンの時代は、私たちのように自分用の聖書を持ち、いつでも読めるということはありませんでした。会堂の礼拝で聖書が読まれるのを聞き、聖書の内容を神の霊の導きによって、理解していたのです。その聖書は何を語っているのでしょうか。イザヤ書です。「闇の中を歩く民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」(9:1)。闇に光が輝くという言葉は、祭司ザカリアが、神をたたえた時に使った言葉です(1:79)。ザカリアが神をたたえた言葉をシメオンも知っていたと思います。

「主である私は、恵みをもってあなたを呼び、あなたの手を取った。諸国の光として、あなたを形作り、あなたを立てた」(イザヤ42:6)。

「わたしはあなたを国々の光とし、わたしの救いを地の果てにまで、もたらす者とする」(49:6)。

 シメオンは、メシアについて語るイザヤ書を思い起こしたことでしょう。だから、救い主メシアは、異邦人、つまりイスラエル人以外のすべての人、つまりすべての人を救うことになると知り、語ったのです。このことはマリアの思いを遙かに超えていたので、マリアはシメオンの言葉を聞いて驚いたのです。


 シメオンは、驚くマリアに

「多くの人の心にある思いがあらわにされる」(2:35)

と語ります。聖書、特に神の戒めを読むと、私たちの心には何らかの思いがわいてきます。


 「その通りだ、実行しよう」と思うときもあるでしょうし、「無理だ、できない」と思うこともあるでしょう。何で神はこんなことを命じるのだと反発を覚えることもあります。このようにして神の戒めは私たちの心をあらわにするのです。イエスもまた人々に話をしますが、イエスの話を聞いた時、人々の心にそれぞれの思いがわいてくるのです。それは単に思いがわくというより、その人の心の有り様がそのまま現れてくるということができます。


 そのありのままのあらわな心を知ったとき、私たちはどうするか、です。自分は惨めな人間で、神の憐れみを必要とすると認めるか、自分のプライドから、自分の惨めさを認めなかったり、人よりもましだと考えたりするか、です。聖書は、私たちの心にある思いを浮かび上がらせる働きをします。

「この子は、イスラエルの多くの人を倒したり、立ち上がらせたりするためにと定められ」(2:34)

とあります。これは、すべての人に救いをもたらすメシア、救い主イエスが、すべての人に歓迎されるわけではないことを意味しています。メシアは、メシアを信じる人を立ち上がらせますが、信じない者を倒すというのです。


 イエスはあるとき、自分は正しい人間だとうぬぼれて他人を見下している人々に対して、たとえを語られました。

「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神さま、私は他の人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者ではなく、また、この徴税人のようなものでもないことを感謝します。私は、週に二度断食をし、全収入の十分の一を献げています』」。

このファリサイ派の人は、自分は徴税人とは違い、神の前に正しく歩めていることを感謝すると祈ったのです。他方、徴税人はどうしたかというと、

「彼は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神さま、罪人の私を憐れんでください』。言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない」

とイエスは結論を述べました。イエスは、ファリサイ派の人に向かって、あなたたちは神の戒めを守っているとうぬぼれているが、それは違う。偽善者だと強く非難しました。ファリサイ派の人々はイエスに対して怒りました。もし彼らが謙遜にイエスに耳を傾けイエスの教えをきちんと受けとめたのなら、彼らは、イエスの批判を受け入れたでしょう。しかし、彼らは神の戒めを守っているという自負の故に、イエスに敵対しました。


 イエスという方は、我々の心を映す鏡なのです。我々はうっかりすると、この鏡に映った自分の姿をきちっと見ません。醜い姿が映し出されていたとしても、それをきちんと見ようともせず、きれいに写っている部分だけを見てしまうのです。そして自分は問題がないと考える。


 イエスファリサイ派の人々に向かって偽善者! と指摘しました。しかし彼らは、それを認めようとしませんでした。神の教えを守っているとうぬぼれている自分が傲慢で、少しも神の御心に生きていないことを知るなら、己の惨めさに気づいたことでしょう。
自分は神の前に、結局は、憐れみを必要とする者であることを認めるか否か、自分の中に誇りうるものは何もないことを認めて、憐れんでくださいと祈れるかどうか。人は自分が惨めなものであるとは認めたくないのです。自分が何ほどかのものであると考えたいのです。それは誘惑です。


 イエスは、神の前に憐れみを求める者を立ち上がらせる方です。自分を自負し、イエスに憐れみを求めない者は、倒れるのです。実際にはイエスに対して憤り、イエスを殺そうとします。そしてイエスは十字架で処刑されて死にます。そのことを

「反対を受けるしるしとして定められている」(2:34)

とシメオンは述べました。「神さま、罪人の私を憐れんでください」と言う人をイエスは立ち上がらせるのです。立ち上がらせるとは、ありのままを受け入れるということ以上のことです。


 イエスは問いかけるのです。<そういう思い>を抱くあなたは憐れみを必要とする人間ではないのか、と。自分の心があらわにされたとき、人はイエスの前に「憐れんでください」と祈るか、いや惨めではないと居直り、イエスの憐れみを拒み、イエスに敵対し、イエスを殺そうとするのか。メシア、救い主とは、人を二つに分ける方だ、とシメオンは言うのです。イエスが敵対する人々によって殺されるとき、マリアは、剣で心を刺し貫かれるとシメオンは語りました。救い主は、誰からも歓迎される方ではないのです。しかし憐れんでくださいという者を立ち上がらせてくださる方なのです。祈ります。