クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

 最近、テサロニケの手紙一をよく読んでいる。その中でパウロが、「神に喜ばれるように」、「神に喜んでいただくために」という表現を使っている。このことが印象に残る。パウロは、神に喜んでもらうことを大切なことと考えているのである。


 実は僕は、説教で「神に喜んでいただこう」とか「神に喜んでもらうために」という表現は使ってこなかった。理由がある。

  • 一つは、神に喜んでもらうことをして、神の恵み、好意を引き出すという発想は聖書的ではないと考えるから。何かを得るために何かをするという発想は、御利益宗教の考えであり、聖書の考えとは違うから。
  • また神に喜ばれる振る舞いをすべきであると語ると、律法主義に陥るから。
  • さらに神学書などには、神は人間に何かをしてもらわなければならないような不完全な存在ではないという考えが述べられていて、神を喜ばせるという発想自体が間違いに思えたのである。その結果、神に喜んでもらうという、動機に生きることはしてこなかった。


 孫娘が折り紙が好きで、遊びに来ると、よく折っている。先日もリボンを折った。そこで折り紙の本を買ってきて、僕も折り紙を折って、手紙を添えて送ることにしたのである。喜んでもらうことを期待して。僕は孫を喜ばせようとしたのである。孫の喜びに仕えるということになる。そこで悟ったことは、神に喜んでもらうとは、神を愛することに他ならないということ。神を愛するから、神に喜んでもらおうとするということ。パウロもそうなのだとわかった。

 折ったのは、サンタクロース。三種類