クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

本日のメッセージ(2010.12.26)
聖書 ルカ 3:1〜14 神は語る


 2010年の最後の礼拝となりました。今日も共に聖書に聞きたいと思います。ルカ福音書の3章に入ります。ルカは、ここで歴史的なことについて言及しています。皇帝ティベリウス、ローマ総督ポンティオ・ピラト、その他。こうしてルカは、歴史の中で、神の救いの出来事が起きたことをはっきりと述べています。複数の人物が列挙してあるので、およその年代が推測できます。紀元28年頃のことと思われます。


 2節、

「神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った」。

この文章は印象的です。衝撃的でもあります。「神の言葉が降った」というのです。金沢は今冬で寒波が到来しています。あられが激しく降ったとしても驚きませんが、「神の言葉が降った」というのは一体どういうことなのか、と考えさせられます。3章の22節では、聖霊が主イエスの上に降ったと書かれています。ヨハネには神の言葉が降り、主イエスには聖霊が降ったという違いはありますが、興味深い出来事が二人の上に起きています。


 「神の言葉がヨハネに降った」。これはヨハネ預言者であることを示していると考えることができます。「預言」という字は、言葉を預かるという意味です。将来起きることを語る予言とは、字が違います。聖書が言う預言者は、神の言葉を預かる人という意味です。つまり、神が人間に伝えるメッセージを預言者が神から預かり、預言者が神に代わってそれを人々に伝えるのです。


 ヨハネは生まれる前から、救い主メシアの先駆けとしての働きをするように神の御心によって定められていました。そして今、その時が来たのです。ヨハネは神の言葉を与えられ、神の言葉を語る者、預言者として登場するわけです。


 旧約聖書には預言者が、神に選ばれたときのことが書かれています。神に選ばれることを神に召される、神からの召命を受けるなどと言います。預言者エレミヤが神から召命と受けたときのことを聖書はこう書いています。

「主の言葉がわたしに臨んだ」。

 主の言葉がエレミヤのもとに来た、という意味です。さらにこうも書かれています。>>

「主は手を伸ばして、わたしの口に触れ、主はわたしに言われた。『見よ、わたしはあなたの口に、わたしの言葉を授ける』」。

 こうしてエレミヤは神の言葉を語る者とされます。預言者エゼキエルに対しても、神の言葉が臨んだとあります。神は彼に巻物を与え、食べるように命じます。巻物を胃袋に入れ、腹を満たせ、と神は命じます。その後、「わたしの言葉を語れ」と命じます。巻物には言葉が書かれており、それを食べることによって、神の言葉を語ることができるというわけです。ヨハネに神の言葉が降ったという表現は、彼が預言者として立てられたことを意味しています。


 聖書が伝える信仰にとって大事なこと、それがなければ信仰が成り立たなくなるもの、それは

「神が語られる」

ということです。預言者は神の言葉を語り、人々は預言者を通して、神の言葉を聞いたのです。「実に信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」とパウロは述べます。


 信仰者は神の語りかけに聞くのです。聖書の神は、人間に語る神です。人を介して、神は語るのです。神に召され、神の言葉を語る人から聞いた言葉を、神が語ったと信じる信仰を私たちは持つのです。


 聖書を読むという行為も、実は、神に聞くことです。聖書という書物を人が読む理由は様々です。

  • これを古典の文献として研究する人もいるし、
  • 西洋の文化を理解するために教養として聖書を読む人もいるでしょう。
  • また聖書の教えを自分の生き方の参考にする人もいるし、
  • 聖書の言葉に励ましや慰めを求めることもあります。
  • 聖書に知恵を求める人もいるでしょう。

 人それぞれの読み方があってもよいのです。しかし、もし、聖書が告げる神を信じるなら、信仰に生きようとするなら、聖書という書物を通して、神が私たちに語りかけるという信仰を持たなければなりません。なぜなら、神は、人間に語りかける神であり、それを聞いて生きるのが信仰だからです。神は今も語りたもうと私たちは信じるのです。


 聖書を読むときも、礼拝において説教を聞くときも、「神さま、あなたの語りかけを聞くことができますように。わたしは聞きます。どうぞお語りください」と祈ることが大切です。キリスト信仰は、聖書の教えを身につけて生きることではありません。神の語りかけを聞き、それに応答するという、神との交わりがキリストを信じる信仰なのです。神の言葉が降ったヨハネは、神の言葉を語るのです。


 旧約聖書の最後はマラキ書とあります。預言者マラキが伝えた神の言葉が書かれています。彼は紀元前五世紀の人です。ということは、それ以来、預言者は現れていないのです。つまり、神の沈黙が、400年以上続いているということです。その沈黙を破ってヨハネは語るのです。彼の上に神の言葉が降ったのです。なぜ神が400年も沈黙したのか、理由はわかりません。その400年の間にイスラエルに何が起きたのでしょうか。


 注目したいのが聖書に登場するファリサイ派の人たちのことです。紀元前6世紀、イスラエルはバビロンによって滅ぼされました。バビロンに捕虜として連れて行かれた人々は、神殿での礼拝を献げることができなくなりました。そこで律法の書を読み、祈りをささげる礼拝を始めました。そのために会堂を造り、そこで礼拝を献げるようになりました。また会堂では、律法を教える教育もなされました。


 ペルシャ帝国の時代、バビロンから人々はイスラエルに戻り、エルサレムの町の再建、神殿の再建を行いました。紀元前二世紀に、イスラエルは、シリアの支配下に置かれました。そして激しい宗教弾圧が行われました。その時、信仰を守るために、戦ったのが「敬虔派」と呼ばれる人たちです。まさに命がけの戦いでした。この敬虔派がファリサイ派の前進と考えられているのです。


 ファリサイ派の「ファリサイ」は、「分離された者」という意味です。これは彼らにつけられたあだ名です。彼らは律法を厳守して、特に身が汚れないように努力しました。律法を守らず、汚れている人々から自分たちを区別したので、分離派とあだ名で呼ばれました。彼らは律法を厳格に守る努力をします。清さを保つために異邦人との関わりを持ちません。異邦人と関わりを持ち、子供が異邦人と結婚するようなことが起きると、偶像礼拝を持ち込むことになります。


 また律法を厳守することにより、民に神の前での責任を自覚させようとしました。そのようにして生活を清めることを目指したのです。律法は命じられている故に従うべきであり、律法の服従のためには、死をも辞さないのです。


 福音書を読むと、主イエスファリサイ派の人々を批判していることがわかります。私たちは安易に彼らのことを批判できません。彼らは、律法を守るためには、死をも辞さない覚悟を持っているのです。この世と妥協するなら、死を選ぶという覚悟を持っているのです。実際に、敵が責めてきたのが安息日だったので、敵と戦わず死んだという話も残っているのです。そのような覚悟の中で律法を守るのです。


 私たちは神の教えをどれほど真剣に受けとめているのか。どれほど神を畏れ敬っているのか、そのことを自覚しないで、ファリサイ派のことを批判することはできません。
彼らは、神の戒めを守ることに熱心、忠実でした。しかし彼らは神に聞くことができなかったのです。神が沈黙していたからです。


 律法は命じられている故に従うべきであり、律法の服従のためには死をも辞さないのは、立派です。神に聞くことができなかったために、律法が本来何を意味しているのかを理解することがおろそかになり、守ることに意義を見いだしていく中で、神の教えの本来の意味を見失っていきました。その結果、彼らの熱心さは誤った熱心になっていきます。


 私たちは、神に聞くことによって、自らの歩みを正していくことが大切となります。私たちはファリサイ派の人々を反面教師とすることができます。つまり、神に聞き、自らの信仰を正す姿勢を持たないと、信仰は独善的になっていくのです。自己流の信仰になっていくのです。まことの信仰から離れていくのです。そういう信仰者が教会に増えたらどうなるのでしょうか。教会は堕落するのです。


 私たちもまた神の声を聞いて生きる者です。聖書から神の声を聞きます。神は具体的な状況の中にいる私たちに語りかけてくださいます。そこで祈って聖書を読みます。聖書から、知恵、処世訓、参考となる益となる言葉を見つけるのではないのです。私たちの状況に対して語りかける神の声を聞くのです。そして説教においても。そして神の導きを受けるのです。


 ところで説教者は、本当に神の言葉を語るのでしょうか。聖書における預言者と説教者では、神の言葉を語るといっても、格が違うのではないでしょうか。預言者は神から直接言葉を与えられているように見えます。説教者はそうではありません。聖書を読み、注解書を調べたりして、説教を作っているらしく、説教者の考えを述べているのではないか。そんな風に思われるかもしれません。また神の言葉を聞けないと思える時もあります。


 しかし、私たちは信じるのです。神さまは、説教者を召し出し、神さまの言葉を語らせることを。旧約聖書は、偽預言者がいたことを告げています。神から聞いていないのに、神の言葉を語っていると預言者になりきっていたのです。神から召命を受けた牧師は、その召命に真剣に応える努力をしていかないと、偽説教者になりかねません。


 説教を作成するというのはたしかに人間の業です。しかし、祈りをもって行い、神の導きを受けて説教が作られるのです。説教のために説教の聞き手も祈ることが大切です。神の言葉を聞くことができるように、説教者のために祈るのです。説教を宗教の講演と受けとめるなら、祈る必要はないし、祈らないでしょう。何かの講演会に行くとき、講演者のために祈って出かけますか。普通祈りません。


 私たちは、神の言葉を聞くから、そのために祈るのです。説教者は、自分の語る言葉が神の言葉として用いられるために祈って準備をするのです。私たちは礼拝の場で何を聞くのでしょうか。神の語りかけを聞くのです。私たちが信じる神は、私たちに語りかける神なのです。使徒パウロも、私たちが神の言葉を語ることができるように祈ってくださいと手紙の中でお願いをしています。神の言葉を聞くことができる、これは非常に大きな恵みではないでしょうか。この恵みを分かち合う教会になることを願います。


祈り

 天の父、私たちに聞く耳を与えてください。あなたの語りかけを聞く耳を。主イエスも「聞く耳を持つ者は聞くがよい」と言われました。
 あなたの語りかけを聞き、あなたの言葉に生かされる幸い、喜びに生きることができるように私たちを顧みてください。私たちを憐れみ、み声を聞かせてください。
 あなたの語りかけを聞く恵みを分かち合い、互いにあなたの言葉を聞くことができるように励まし合うことができるようにしてください。
 イエス・キリストの御名により祈ります。