クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

本日のメッセージ(2011.1.1)
聖書 ペトロ一1:3〜5 生き生きとした希望


 新しい年を迎えました。古い年は去りました。古い年が過ぎ去り、新しい年が来る、このことを思う時、この世が終わり、神の国が到来すると聖書が告げることを思う人もおられると思います。


 人類は古代から時間が周期的に流れていることを知り、暦を作りました。一年という周期をもって時間は流れます。時間を一年単位に計るようになり、それを暦で表現しました。
一年周期の終わる時、それはまた新しい周期の始まる時です。時間は無限に一年という周期を繰り返すと考える人がいます。時間は永遠に続くという考えです。


 しかし聖書は、時間に始まりがあり、終わりがあると告げます。神さまがこの世界、および宇宙万物を造られた時に時間が始まり、この世界の終わりの時が来て、世界が完成します。神の国が到来すると聖書は告げます。新しい年を迎えたこの日、神の国が到来する、新しい世界が到来するということに、共に思いを向けてみたいと思います。


 聖書では、神さまご自身、自分は憐れみ深い者であると語っています。人が「私は正直な人間です」と言った時、それを聞いた人はどう判断するでしょうか。その人を知っているなら、それは「本当だ」とか、「嘘だ」と経験に基づいて判断できます。しかし、その人との関わりがなければ、嘘を言っているのか、本当のことを言っているのかはわかりません。他の人がどう言っているのか、その意見を参考にすると思います。

 今日の聖書は、使徒ペトロが、神は憐れみ深い方であると述べています。 聖書は、憐れみ深い神がいると読む者に語りかけます。聖書は憐れみ深い神がいると伝えます。そして、どのように憐れみ深いのかが、今日の聖書でも語られています。神様の憐れみ深さがいちばん具体的に語られているのは、主イエスの語られた放蕩息子のたとえと呼ばれているたとえです。聖書は多くの箇所で、神が憐れみ深いかたであることを様々に語っている。
聖書は、神が存在するかどうか、という質問には答えません。聖書はいつも、神はこういう方であると読む人に語りかけます。聖書が告げる神を信じるかどうか、逆に我々が問われるのです。


 神を信じていくと、神が聖書が告げる通りのかたであることがわかるようになります。経験できます。それが信じる者の喜びとなります。神は本当におられるのだという喜び。そして我々も、神さまのことを人に伝えることができるようにされていきます。使徒ペトロもまた、神は憐れみ深い方であると自らの経験に基づき語っています。
神は憐れみ深いかたです。

  • 神は、私たちの行いに応じて報いてくださるというより、
  • 神の目に価値ある行いを私たちがしていなくても、
  • いや、神の目に好ましい行いをしていなくても、

私たちを顧みてくださる、私たちに親切にしてくださるかたです。なぜそこまでするのかと言ったら、憐れみ深いからですね。


 今日の聖書では、神の憐れみは、私たちを「新たに生まれさせる」と書かれています。

神の憐れみは、私たちを「新しい人間にしてくださる」のです。

 時に、私たちは言います。「あの人変わったね」。人間は変わります。人柄が変化します。何かが起きると、それがきっかけで人が変わることがあります。また人は自分を変えたいとも思います。そして変わります。しかし変えたいと思っても変わるとは限りません。自分の意志で自分を変えることができることもあるし、変えられない面もあります。そして、神さまは、その憐れみによって私たちを変えてくださいます。神様によって変えられる人、それはイエス・キリストを信じる人です。


 人が変わるという時、何が変わるのでしょう。基本的には、考え方が変わります。その結果、行動が変わり、さらには、人格の変化、人柄の変化となってきます。変化の最初は、考え方に現れます。何を大事にするか、という考えに変化が現れます。神さまによって変えられた人間は、神さまの考えに自分を合わせるようになります。そしてそれは、幸いなことなのです。


 あるいはこうも言えます。神さまをどのように礼拝するのか。神さまを大切にすることは、神さまを礼拝することに現れます。どのように神さまを大切にするかは、どのように礼拝を大切にするかに現れるのです。どのように神さまを礼拝するかによって、信仰者の考え方も変わってきます。


 今日の聖書は、新たに生まれた人の特徴が二つ書かれています。一つは、神は、私たちを新たに生まれさせる時、

  1. 生き生きとした希望を与えると書かれています。
  2. もう一つは、天に蓄えられている財産を相続できることです。

 信じる者に与えられる希望は二つあります。そしてそれらは、イエス・キリストの死者の中からの復活に基づきます。一つは、死後の希望です。イエス・キリストの死者からの復活は、死がすべての終わりではないことを告げています。イエス・キリストは、十字架で死んだ後三日目に復活し、その後、天に上げられました。イエス・キリストの復活は、死者の復活の初穂です。主イエスに続いて、私たちもまた復活する者とされたのです。私たちもまた復活の希望を持つことができます。


 第二の希望は、この世に生きる時の希望です。人は皆希望を必要としています。私たちは様々な心配、不安に取り囲まれ、脅かされているからです。私たちの将来は、どうなるのかわかりません。心配を始めれば、安心は遠ざかります。

  • 老いたら病気になるかもしれない。
  • 病気で障害を持つことになるかもしれない。
  • ぼけるかもしれない。
  • 伴侶に先立たれたあと、孤独の人生を送るかもしれない。
  • 経済的に困難になるかもしれない。
  • 家族の介護が必要になるかもしれない。

 何の心配もない老後を送れると断言できる人はいません。今の時代、若い人であっても、いろいろな不安があります。生活・生きることだけを考えるだけでも、心配な要素は尽きません。さらには、生き甲斐のある人生、価値のある人生を送れるかどうかもわかりません。そして、自分が抱く希望が希望であり続けるとは限りません。希望が失望に終わることもあります。


 神の憐れみによって、「生き生きとした希望」が与えられると書かれています。この希望は

  • 確かな希望、
  • 裏切られることのない希望、
  • 失望に終わることのない希望、
  • この希望を持つことによって喜び、平安が与えられるような希望。


 このような希望を、神から授かるのです。この「生き生きとした希望を抱く」のは、新しく生まれた人です。信仰によって生きる人です。彼らは神さまを礼拝し、神に祈り聖書を読む人です。聖書に親しみ神さまの考えに自分を合わせる人です。神は希望の神であり、神から来る希望が確かな希望、失望に終わることのない希望、生きる力を与える希望です。


 人生の先行きに関する不安は確かにありますが、神が共におられます。今日の聖書には、

「終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって、守られています」

とあります。私たちのこれからの人生に何が起きるかわからないし、心配しだしたら、切りがない。しかし確かなことがあると書かれています。神の力によって守られているということです。神が守ってくださるという約束があります。さらに、信仰によって守られているとも書かれている。つまり、信仰者は、神の約束に生きるのです。神の約束を頼みとするのです。


神の守りのあることを信じ抜くこと、苦しいことや辛いことがあっても、神が守ってくださっていることを信じ抜くのです。疑いが生じた時は、「信じます。信仰のないわたしをお助けください」と祈るのです。そのようにして信じ抜き、神さまに希望をおいて生きるのです。

「天に蓄えられている朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者」

とされていることも、新しく生まれることによって与えられた恵みです。
これもまた神の憐れみによるものです。新しく生まれた者は、神の国の希望に生きることができるのです。


聖書は神の国の素晴らしさを描く時に、否定的な表現を用いることがあります。ここでは、朽ちない、汚れない、しぼまない。
この世の宝は、朽ちるし、汚れるし、しぼむからです。この世の宝と信仰者が相続する神の国という財産は、全く違うことが否定的な表現を使って示されます。
別の聖書の箇所では、神の国では、死も、悲しみも、労苦も、嘆きもないと描写しています。


人生は旅です。神の国を目指す旅です。旅の途中はいろいろな出来事が起きます。旅の途中は人それぞれ、いろいろあります。快適な旅もあります。不愉快なことの多い旅もあります。辛いことの多い旅もあります。しかし、私たちは、神の守りの中で、神の国という目的地を目指して旅をします。希望を持って旅をします。すばらしい目的地、神の国を目指して。


祈り
イエス・キリストの父なる神様、
あなたが憐れみ深い方であることを感謝し、あなたをたたえます。
新しい年を迎えたこの時、新しい時、神の国が到来する時のあることに思いを向けさせてください。私たちが目指して歩むのは、神の国であり、私たちは、この世を旅して歩む者であることを教えてください。この世の旅路において何が起ころうとも、神様が共にいて守ってくださることを信じて歩むことができますように。そして神の国という目的地を目指す旅を喜ぶことができますように。イエス・キリストの御名により祈ります。