クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

本日のメッセージ(2011.1.23)
聖書 ルカ3:23〜38 神に仕える人生は尊い


 今日読んだ聖書には、人の名前が、カタカナで並んでいます。イスラエルの人たちの名前なのでカタカナで書かれています。ここに書かれている名前の大半は、初めて聞くような名前です。このような箇所からどんな説教ができるのか、興味津々の方もあるかもしれません。私自身も、一ヶ月前に礼拝の予告をするとき、どんな説教ができあがるかわからないので、「イエス系図」という、つまらない題しかつけることができませんでした。
この系図を繰り返し読んで、どんな思いが心にわいてくるのか、それが説教になるのだと思いました。聖霊様が思いを与えることを願いました。

 主イエス系図は、聖書に二つあります。最初はマタイ福音書の出だしにあります。次は、ルカ福音書のこの系図です。比べてみると、わかることがあります。マタイの系図は、先祖から子孫へ、ルカは、子孫から先祖に、という順番です。


 マタイは、アブラハム系図の先祖ですが、ルカの場合は、アダムが先祖で、最後に「神に至る」とあります。マタイは、メシアである主イエスは、イスラエルの待ち望んでいたメシアであると主張しています。それに対してルカは、主イエスは全人類の救い主であると主張しています。アダムの子孫は、イスラエル民族だけではありません。ルカの場合、先祖から子孫の方向で系図をかけません。その方向で書いたら、全人類を書かなければならないからです。


 さらに名前を比較してみると、マタイには、アブラハム以前の名前はありません。マタイとルカでは、アブラハムからダビデまでの名前はほとんど共通しています。しかし、ダビデの子孫では、全く名前が違います。マタイは、ダビデの子をソロモンとしているのに対して、ルカは、ナタンとしています。このナタンはダビデの息子です。ダビデは、数人の女性による子供を授かっています。ナタンというのは、ソロモンの弟です。妻バトシェバが産んだ子です。ルカがなぜ、有名なソロモンではなく、ナタンという息子の系図を選んだのか、謎です。


 マタイとルカの両方の系図は、子孫としてはヨセフで終わります。二つの違う系図が、ヨセフで終わるというのも不思議ですし、ヨセフの父の名前が違っているのも、変だと思わせます。遠い祖先の名ではありませんから。


 ですから、系図は正しいものなのかという疑問が生じます。あるいは、だれがこの系図を保存したのか、なぜ保存したのか、という疑問も生じます。


 以前テレビで、この人のご先祖は誰?、というクイズの番組がありました。松尾芭蕉の子孫とか、織田信長の子孫とか、もっと古い人の子孫という人もいたと思います。そこで思うことは、それなりに有名な人が系図を残しているということができます。有名な人の子孫であることが一種の誇りとなり、系図を残させるわけです。


 ですから、逆に平凡な庶民、民衆に過ぎない人の系図が残されているということは少ないのではないでしょうか。皆さんの家は、どこまで先祖をたどることができますか。私は、写真で父方の祖父は知っていますが、それ以上のご先祖様は知りません。母方で言えば、祖母は知りません。


 では聖書に記録されている、主イエス系図はなぜ、残されたのでしょうか。だれが保存したのでしょうか。アブラハムは紀元前18世紀頃の人と言われています。聖書を読むと、あちこちに系図が書かれています。系図は保存されてきたわけです。イスラエルの人は系図を大事にしていると説明する本がありますが、なぜ、大事にするのでしょうか。そして系図と共に、聖書に書かれている事柄も、保存されてきたから、私たちが聖書として読むことができます。たとえば創世記に登場するアブラハムの人生がなぜ、後世まで伝えられ、さらには聖書として記録されたのでしょうか。これも考えてみれば、不思議なことではないでしょうか。


 旧約聖書の最初の五つ、創世記から申命記までをモーセ五書と呼ぶことがあり、モーセが書いたと伝えられています。学問的には、モーセが著者とは考えられていません。聖書に書かれている事柄は、何らかの形で、言い伝え、伝承として保存されてきたので、今日、聖書という形でまとめられたわけですが、なぜ、保存されてきたのでしょうか。


 日本では、古事記とか、日本書紀とか、日本の古代の歴史を扱ったものが今日まで残っています。外国でも建国の由来を物語る書物が保存されていることはよくあります。聖書の系図、聖書に書かれている事柄は、イスラエルの建国の由来を物語る故に、保存されてきたのでしょうか。


 系図が保存された理由、聖書に記録されているさまざまな出来事が伝承として伝えられたのは、自分たちは神との関わりに生きているという自覚があったからではないでしょうか。アブラハムの場合、彼に語りかける神の存在抜きに彼の人生を語ることはできません。逆に言えば、アブラハムは、神が自分の人生にどのように関わってくださったのか、そのことは子供たちに伝えずにはおれなかったのではないでしょうか。その子イサクも、その子ヤコブも、神のことを語らずにはおれなかったのではないでしょうか。それを聞いた子供たち、また孫たちも、「お父さんは、おじいさんは」と神のことを語ったのではないでしょうか。


神との関わりに生きてきたという自覚が、系図を保存し、伝承を保存し、こうして聖書として残されてきたのではないでしょうか。


 この系図と向き合って与えられた思い、それは、ここに名が書かれている人の大半は、どんな人生を送ったのか、誰もわからないということです。生きた証として名前は記されていますが、何を考え、何を喜び、誰を愛したのか、どんな人生を送ったのか、それはわからない、ただ名前だけ記録されているという思いです。


 幸せな人生を送ったのか、苦しみだけの人生を送ったのか、やり残したことのない納得した人生を送ったのか、無念さの残る人生を送ったのか、それはわかりません。ただこの人たちは、神と関わる人生を送った、信仰的な言い方をするなら、神に仕える人生を送ったのではないか、ということを思いました。

  • 歴史に名を残すようなことは何一つしていないかもしれない。
  • 人に認められるようなことはしていないかもしれない。
  • 人からほめられることのない人生かもしれない。
  • 人からは価値ある人生だったと思われないかもしれない。やり残したことのある人生かもしれない。
  • しかし、自分の心の醜さにうちひしがれ、顔を上げることのできないとき、神の赦しの言葉を聞いて、立ち上がることができたのではないか。
  • 人から非難され、責められ、苦しくてどうしていいかわからないとき、あなたのことはよくわかっているとの励ましの声を聞いたのではないか。
  • 祈りが聞かれて本当に神さまはおられるんだと不信仰を反省しつつ、喜んだのではないか。
  • 家族を愛するという平凡さに神の祝福としての幸せを見いだしたのではないか。
  • 迷いの中にあって、神の導きを与えられて自分は取るに足りない者だが、精一杯神に仕えていきたいと願ったのではないか。
  • ただ神さまに生かされていることを感謝したのではないか。神さまを信じて生きることを感謝したのではないか。
  • 神の恵みを受けた時は、他の人たちと分かち合ったのではないか。
  • ただただ神に仕えることを喜びとしたのではないか。
  • 労苦は決して無駄になることはないと信じて神に仕えたのではないか。


 名前しか記されていない。しかし、神に仕える人生を送った故に、その人生は尊いものだったのではないか、この系図と向き合って与えられた思いです。そして、ここに名を残さずに、神に仕える人生を送った人たちも沢山いたし、その人たちの人生も尊いものだったのではないでしょうか。


 先日、知っている教会から、創立80周年の記念誌が送られてきました。そこには、文章を寄せた人々の名が記されていました。信仰に生きている人の名前、神さまに仕えて生きている人々の名が記されていました。その記念誌は多くの人の目に留まるわけではありません。仮に多くの人が読んだとしても、原稿を寄せた人の名前は忘れ去られるでしょう。しかし、ある時期、教会に連なり、神を礼拝し、教会の働きに仕え、神の民として、歴史の中に生きているのです。


 時間の流れの中で、神の民として教会に連なり、教会に仕え、神の国を目指してこの世の旅をするのです。私たちの多くは、信仰者としての名を残すことなく、忘れ去られるでしょう。しかし、神の民として、神の国を目指して歩んだ事実は、神さまの目に記憶されることでしょう。


 この系図に名前が記されていない、多くの人々が神に仕え、その生涯を終えているのです。神に仕える人生は、人がどう評価しようと、神の目に尊い人生ではないでしょうか。神に仕える人生は、尊い人生だと、この系図は、私たちに語りかけているのではないでしょうか。


 私たちは自分が納得のできる価値ある人生をおくりたいと考えているかもしれません。自分の生きた証を残したいと考えている人がいるかもしれません。それは人それぞれです。聖書のこの系図は、神に仕える人生は、尊い、と語りかけているのではないでしょうか。

祈り
天の父なる神、
あなたによって救いに入れられ、御言葉に生かされる幸いを感謝します。御言葉こそ、私の道の光り、足下を照らす灯火です。
あなたの恵みを感謝し、あなたの恵みに応えてあなたに仕える歩みは、尊い歩みと知りました。感謝します。
永遠につながる人生とは、神様に結ばれた人生であり、神様に仕える人生です。
ささやかであろうとも、あなたの恵みに応え、あなたに仕えて歩む人たちを祝福で満たしてください。労苦の中にあって仕えている人に励ましと喜びを与えてください。
イエス・キリストの御名により祈ります。