クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

本日のメッセージ(2011.1.30)
聖書 ルカ4:1〜13 神に仕える人生は尊い


 今日の聖書にある「人はパンだけで生きるものではない」という言葉は、キリスト教国ではない日本においても、よく知られた言葉です。出典が聖書であることがどれほど知られているのかはわかりませんが、この言葉自体は多くの人の知っている言葉だと思います。ちなみに、日本を代表する国語辞書と言ってもよい、岩波書店広辞苑という辞書では、「人は物質的満足を求めて生きるのではなく、精神の充実を図ることが大切である」と説明されています。これがいわば日本人の共通理解となります。そして人は食べるだけでは生きているとは言えません。何かの目的や生き甲斐がなければ、生きていく気力もなくなるし、人として本当に生きているとは言えないでしょう、などと言われます。


 聖書をきちんと読むと、これは間違った理解であることがわかります。「人はパンだけで生きるものではない」という言葉は、聖書から離れて、独立した言葉になっているのです。しかし、私たちは今日、この言葉の意味を理解し、その上で、信仰に歩む者になりたいと願います。


 マタイ福音書にも、この誘惑の物語が書かれています。マタイ福音書においては、主イエスは、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きると書いてある」と答えています。主は、人は、神の口から出る一つ一つの言葉によって生きるものだと答えています。しかし、この後ろの部分は、ルカにはないのです。ルカはただ、

「人はパンだけで生きるものではないと書いてある」

と記します。この違いは何を意味するのでしょうか。ルカ福音書では、石をパンに変えることを問題にしているのです。主イエスは荒野に40日間いて、非常にお腹がすいています。飢え死にしそうなほどです。主イエスは神の子で、実際に石をパンに変える力を持っています。主は、結婚式で客に振る舞うぶどう酒がなくなったとき、水をぶどう酒に変える奇跡を行っています。ですから、石をパンに変えることはできるのです。


 飢え死にしそうなのだから、石にパンになるように命じたらどうだと悪魔は言うのです。お腹がすいているんだし、石をパンに変える力があるし、そうしたっていいじゃないか、と悪魔は言うわけです。実は、それは信仰の道から外れることなのです。信仰というのは、自分の力で何とかしようとするのではなく、すべてを神にゆだねて生きることです。神に信頼することです。

「心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず、常に主を覚えてあなたの道を歩け、そうすれば主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる」(箴言3:5〜6)。

 神の霊に導かれて、主イエスは荒野に行きました。神の霊に導かれて、です。40日間何も食べませんでした。飢え死にしそうです。この時、その力があるからといって、石をパンに変えてよいものなのでしょうか。主は、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者」という天からの声を聞き、メシアとしての働きに乗り出すところです。


 自分にその力があるからと言って、石をパンに変えてよいのかどうか、です。神の霊が主イエスを荒野に導きました。そのために飢え死に一歩手前まで言ったのです。この時、それでもなお神にゆだねて、石をパンに変えずに生きるのか、それとも石をパンに変えるか、です。


 信仰とは、徹底的に神にゆだねて生きることなのです。石をパンに変えないで、飢えたままでガリラヤの町に行こうとしたら、飢えのために途中で倒れてしまうかもしれません。行き倒れになって死んでしまうかも知れません。仮にそうなったとしても、神にゆだねて生きるのが信仰なのです。


 こう言うと、それは極端だ、ついて行けない、と言う人が、皆さんの中におられるかも知れません。しかし、ゆだねる、任せるというのは徹底しなければ意味がないのではないでしょうか。神に任せる、神にゆだねる、それは信仰の冒険なのです。


 「人はパンだけで生きるものではない」という言葉は旧約聖書からの引用です。この言葉には、背景があります。出エジプトの出来事です。旧約聖書出エジプト記に書かれている出来事です。イスラエルの民は、エジプト王の奴隷として、辛い生活、苦しい生活を送っており、この苦しみからの救いを求めて神に叫んだのです。「救ってくださ〜い〜」。


 すると神は、祈りに答え、指導者としてモーセを選びます。そして神は、モーセに、エジプト王と交渉をさせるのです。「神を礼拝させてほしい」。エジプト王から見れば、それは労働を休むことになるので許しません。結局、神は奇跡を行い、エジプトに災いを降し、その結果、王は、イスラエルの民にエジプトから出て行くように命じます。イスラエルの民は、神の力強い奇跡を見たのです。神の大いなる業によって解放されたのです。


 神はイスラエルの民に、自由に生きる場所へ連れて行くと約束しました。その約束の地に向かってイスラエルの民は旅をします。途中、荒野を通ります。荒野は何もないところ、食物も水もないところです。だからまもなく、食べ物がない、飲み水がないという困難に直面します。するとイスラエルの民はどうしたのでしょうか。彼らは不満を言うのです。ここで我々を死なせるのか!


 イスラエルの民から見れば、一難去ってまた一難です。エジプト王の奴隷、次は飢え渇きによる生命の危機。イスラエルの民にもし、石をパンに変える力があったら、彼らは迷わず、石をパンにしたでしょう。その力がないので彼らは、不満を言ったのです。彼らは、神にゆだねることをしなかったのです。神に信頼することをしなかったのです。


 彼らはエジプトにおいて、神の力強い働きを見たのです。それなのに、その神に信頼し、神にゆだねることをしなかったのです。食物がないとき、飲み水がないとき、神に、「与えてください。助けてください」と祈らなかったのです。神に身を任せなかったのです。信仰の冒険をしなかったのです。信仰の冒険、つまり神は助けてくださると信じて進むことです。彼らは立ち止まり、不平を言ったのです。彼らは、自分たちが神の計画の中で生かされていることを知ろうとしませんでした。約束の地にあなた方を連れて行く、それが神の計画でした。神の計画に生きていれば、窮地にあっても、神に身を任せる決断をしたでしょう。神に身を任せることはある意味で怖いことです。絶対に大丈夫という保証のない道を歩くことになるからです。信仰とは、神に身をゆだねることです。神の計画の中に生きることです。神の計画の中にあると信じて神に信頼する、それが信仰です。荒野、それは神と出会う場所です。


 主イエスは主の祈りにおいて、日々の糧を与えてくださいと祈るように命じました。生きていくのに必要なものを与えてくださいと祈るように教えられたのです。あるいは山上の説教では、私たちが必要なものはすべて神はご存じで与えてくださるから、明日のことは思い煩うなと教えられました。明日はどうなるのか、私たちにはわかりません。私たちは明日を神にゆだねるのです。神にゆだねていいんだと私たちは信じるのではないでしょうか。


 皆さんの中には「パンがなければ生きていけない。死んだらおしまいだ。だからパンを求めることが必要だ。石をパンに変える力があるなら、変えた方がよいのではないか」と思う人がいるかもしれません。そうでしょうか。イスラエルの民はパンを得ようとしました。しかしイスラエルの民は自分の力でパンを得ることができないので、不満を言いました。悪魔は主イエスに石にパンになるように命じたらどうだと言いました。しかし、パンを得るために、神にゆだねる、神に信頼するという道がある。この道を歩む、それが信仰です。


 うっかりすると私たちは、パンを得るまで、信仰のことは後回しにしてしまいます。神がパンを与えてくれるかどうか、はっきりしないから不安になり、まず自分の力でパンを得ようとし、神にゆだねること、神に信頼することを後回しにする、あるいは放棄する。そういう失敗をイスラエルの民はしたのです。そういう失敗を主イエスは拒否したのです。


 イスラエルの民は、神にゆだねて前進することをしませんでした。それでも神の憐れみにより、神から食べ物、飲み水を与えられ、ついに約束の地を目の前にするところまで進んだのです。しかしその時、彼らはまたもや、失敗しました。約束の土地は、豊かな土地でした。収穫が豊かな土地です。しかし、そこには体の大きい強そうな人々が住んでいたのです。そこで、約束の地に入り、戦いとなれば自分たちは死ぬ、と言って、前進することを拒み、嘆いたのです。またまた窮地です。死を覚悟して前進するか、前進することもできず、さりとて後戻りすることもできず、ただ嘆き、不満を指導者モーセにぶつけるか、です。死を覚悟して前進するのではなく、信仰者は神の勝利を信じて前進するのです。


 頑なに神に信頼することを拒むイスラエルの民に神は怒りを発しました。 頑なに神に身をゆだねることを拒むイスラエルの民に神は怒りを発しました。そこでイスラエルの民は荒野で40年間生活することを神から命じられます。彼らは荒野で、神が天から与えるマナを食べて40年生きました。自分たちの命を支え守るのは、神であることをいやというほど学んだのです。自分たちは神によって生きる者であることを思い知らされたのです。
モーセイスラエルの民に言います。「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(申命記8:4)。神こそが、神だけが、私たちの命を支えるのです。その神に信頼する、神の支えに賭ける、それが信仰であり、信仰の冒険です。ルカは、「人はパンだけで生きるものではない」と主イエスの言葉を記し、神こそが、神だけが、私たちの命を支える方なのだ、と私たちに訴えているのです。


 イスラエルの民は、一難去ってはまた一難、そして一難去ってはまた一難、と苦しみに翻弄される歩みをしたのです。


 もし、自分の人生が神の計画の中にあるという視点で自分の人生を見たらどうなるのでしょうか。人生は全く違う光景を見せることになるでしょう。それは創世記に登場するヨセフを見ればわかります。


 ヨセフは兄たちからねたまれ、殺されそうになります。殺されないですみますが、エジプトに奴隷として売り飛ばされてしまいます。17歳の時です。エジプトの役人の屋敷で仕えることになります。青年になったヨセフを役人の妻が誘惑します。ヨセフが誘惑を拒むと、その妻はヨセフを恨み、ヨセフが私を誘惑したと偽証します。ヨセフは、牢獄に入れられます。30歳になるまで、彼は不遇の目に遭います。なんて自分は不運なんだと嘆くこともできたでしょうが、ヨセフはそれをせず、忍耐をもって時を過ごします。やがて彼は、これらの苦しみの中に神の計画のあることを見て取ります。すべては神の導きの中にあるとヨセフは知るのです。


 福音とはよい知らせのことです。主イエスは「人はパンだけで生きるものではない」と宣言されました。私たちには、私たちのすべてをゆだね、任せることのできる神がおられるのです。


 神は私たちの人生を、神のご計画の中に置くのです。そのようにして、私たちを導く神がおられるのです。それ故、私たちはどんなことに直面しても逃げないで、神に信頼して、神にゆだねて、信仰の冒険をすることができるのです。たとえ行き詰まりが予想されても、行き倒れになる不安があっても、神に賭けるのです。神に信頼しないで、安全な場所に身を置くことをしないのです。


 そのように神に信頼し、神にゆだねるとき、私はあなたと共にいると神は私たちにその姿を現されるのです。私たちは神のご計画の中に生かされているという信仰が、信仰の冒険を可能にするのです。人はパンだけで生きるものではなく、神によって生きるものである。これがルカのメッセージです。