クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

本日のメッセージ(2011.2.20)
聖書 ルカ4:14〜30 恵みの福音


 信仰に入る理由は、人によってそれぞれだと思います。それぞれの理由で信仰に入ることができます。

  • 人に勧められたからという理由で洗礼を受けた人もいるでしょう。
  • あるいは、自分の力で生きる限界を感じて神を信じることにした人もおられるでしょう。

 私自身は、自分の罪に対する神の赦しを必要とする事情があり、洗礼を受けました。若い頃、ヘビースモーカでした。ある時、これ以上たばこを吸い続けていていいんですか、という神様の警告が与えられました。洗礼を受ける前のことです。その時、自分は神さまから与えられたこの体を傷つけていると思わされました。そしてこの罪に対する神の裁きを恐れました。赦しがほしい、との切なる思いから洗礼を受けました。


 私は救われました。感謝でした。この感謝はやがて薄れていきました。新たな問題が起きました。心の中にある色々な束縛のために私には苦しみがあったのです。牧師になって、何年もしてから、罪は、私どもに様々な束縛、不自由をもたらすことを知りました。たとえば思い煩いから自由になることができずいつも心配していること、あるいは劣等感に悩み続けて自分に自信が持てなかったり、他の人に対する関心の少なさ、愛の薄さ、自分の限界に悩みました。こういう束縛、不自由、限界が実は罪に原因があることを知ったのは牧師になって何年もたってのことでした。


 罪とは、万物の創造主であり、自分に命を与えてくださった神を信じないことであり、この神との交わりに生きないこと、この神の心を大切にしないことであると知りました。そして神を信じない、神をないがしろにする罪の中で生きるとき、罪意識を感じるようなことをしでかしたり、様々な不自由に悩み苦しむことがわかりました。


 ですから、ルカ福音書で、主イエスが、「主が私を遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるためである」という言葉には、非常に共感を覚えます。救いとは解放であり、自由であるということです。罪の赦し、それは罪責感からの解放、神の裁きの恐れからの自由と呼ぶこともできます。


 実は一つのギリシャ語が、この箇所で、解放、自由と訳され、ルカの他の箇所では、「赦し」と訳されています。私どもは救いというと、罪の赦しだけを考えてしまい、束縛からの解放や自由ということをあまり考えないかも知れません。そのために、束縛による苦しみにどう対処していいかわからず苦しむことが多いのではないでしょうか。


 主イエス安息日にいつものように会堂に入ったとあります。そこでは聖書が読まれ、神の教えが説かれていたのです。会堂には、会堂長がおり礼拝を司ります。聖書の教師と思える人に、会堂長は聖書を教えるつとめをゆだねるのです。そこで主イエスは、聖書を読み、教えられるのです。係の人からイザヤ書の巻物を渡された主イエスは巻物を開きながら、イザヤ書61章の言葉をお選びになり、朗読します。主イエスイザヤ書を読み終わったあと、こう言われました。

「この聖書の言葉は、今日、あなた方が耳にしたとき、実現した」(21節)。

 この言葉を聞いたあなたがたに対して、この聖書の言葉は実現したというのです。でも、聖書の言葉が実現したとはどういうことでしょうか。


 主イエスが引用したイザヤ書の言葉は紀元前6世紀頃の預言者の言葉です。主イエスの時代より五百年も前に書かれた言葉です。その聖書の言葉が実現したとはどういうことでしょうか。言い換えると、今日、このルカ福音書の言葉を耳にした今、この礼拝堂にいる私どもに対しても、この聖書の言葉は実現したと言ってもよいのです。会堂で主イエスを見つめ、主イエスの話を聞いた人々だけでなく、今、この礼拝堂でルカ福音書の言葉を聞く私どもにも実現したのです。どういうことでしょうか。


 たとえを言います。晴れた日、太陽が照る場所に私が立てば、そこに私の影ができます。影は、私という存在がなければできません。影は私という実体に伴って生じます。影は、何らかの形で実体を映し出します。


 聖書の言葉が実現したというのは、これまで影を見てきたが、今や実体を見ることができるようになったという意味です。イザヤ書の言葉は影だというのです。そして主イエスが実体をもたらしたというのです。


新約聖書ヘブライ人の手紙にこう書かれています。

「律法には、やがて来る良いことの影があるばかりで、そのものの実体はありません」(ヘブル10:1)

とあります。旧約聖書の律法には、罪を犯した時、動物のいけにえを献げて神に赦しを求めることが定められています。動物のいけにえにより赦しを受けることは、一つの宗教儀式、あるいは宗教のシステムとしてできあがっています。ヘブライ人への手紙では、これは影だというのです。影の実体とは、主イエスの十字架の死です。主イエスがご自身を罪のあがないのためのいけにえとして献げたことです。


 影である動物のいけにえは、罪を取り除くことはできないとヘブライ人への手紙の著者は語ります。しかし、主イエスご自身といういけにえは、人を罪から清めることができるいけにえ、罪に対する本当のいけにえであるというのです。


 イザヤ書の言葉が実現したとありますが、これは、影が示すものが現実となったという意味です。イザヤ書の言葉より、もっとはっきりと影となる言葉、出来事が旧約聖書に書かれています。それは出エジプトの出来事です。


 旧約聖書出エジプト記にある、イスラエルの民のエジプト脱出物語、エジプト王の支配からの解放の物語、奴隷状態から自由にされる物語は、影なのです。イスラエルの民はエジプト王の支配の中で惨めで苦しい生活を送らざるを得ませんでした。自分で自分を救うことのできない、弱く、取るに足りない存在に思えたのです。この出来事は影で有り、主イエスによる罪の支配からの自由という実体を映し出すものなのです。出エジプトの救いの出来事は過去の出来事ですが、主イエスが与える救いはどのようなものかを映し出すのです。主イエスの十字架の死は、私たちの罪を赦すための死です。そしてその死は、罪の赦しをもたらすだけではなく、罪の支配からの「解放」をもたらすのです。


 さらにエジプトを脱出したイスラエルの民は、神が与えると約束してくださった自由に住むことのできる土地を目指して旅をします。その旅は、安楽な旅ではなく、困難が伴うものでした。その旅の途中で様々な不自由、束縛を味わいます。荒野では、食べ物がない、飲み水がない、このままでは死んでしまうという、恐れ、心配の虜(とりこ)になります。恐れや心配に心が支配されて、どうしようもないのです。やがて神が与えると約束された土地を前にしますが、その土地には、強そうな敵がいます。すると敵と戦えば死ぬかも知れない、と恐れに捕らわれます。


 自由の地を目指して旅をするイスラエルの民は試練、困難に直面し、心配、思い煩い、恐れ、不安、失望に捕らわれてしまうのです。彼らの心は、捕らわれ、束縛され、不自由になるのです。その思いから解放されて晴れやかな、すっきりした、喜びに満ちた心になれないのです。しかし神は、その彼らを救います。神が与える救いには、解放という広さがあるのです。


 出エジプトの物語は影です。それは罪の支配からの自由という深さ、様々な束縛からの自由という広さを持つ主イエスによる救いという実体の影なのです。


 イスラエルの民は、出エジプトの出来事を通して、神の民となり、自由に生きることを目指します。そこで大切なことは神に信頼することでした。神こそが、彼らを救い、彼らに開放と自由を与えることを学ぶことが求められました。


 そして主イエスによる罪の赦し、罪の支配からの自由を得た私どももまた、神の国を目指す旅において遭遇する様々な困難から来る不自由、束縛に対して、神に信頼して生きるのです。私どもは主イエスの救いをいただき、神の子とされ、神に信頼して生きるようになったのです。


 私どもは知るのです。罪とは、法律を犯したり、不道徳なことをすることではないのです。これらは罪の結果です。罪とは、創造主であり、自分に命を与えられる神を信じないことであり、この神との交わりに生きないことです。その結果、人は自分の思いのままに生きることになります。その時、人は知らずして神の教えに背いて悪を行うし、自分の思い通りに生きようとして、思い通りにならないもどかしさや、思い通りにならないところから来る、思い煩い、心配、自己中心という不自由の中に生きることになるのです。悪を行ったと思えば、罪責感で悩むのです。


 皆さんも思われるのではないでしょうか。救われているのにどうして苦しみ、思い煩い、心配し、喜びがないのだろうか。私どもは、主イエスの与える救いは、罪の赦し、罪からの解放だけではなく、日々の生活で生じる様々な、心の不自由からの解放、自由であることを知り、これを求めていいのです。それが主イエスのもたらす救いなのです。


「主の霊が私の上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために。主は私に油を注がれたからである」(18節)。

 福音は、貧しい人に語られるのです。貧しい人とは、経済的に貧しい人だけを指すのではありません。18節では、捕らわれている人、目の見えない人、圧迫されている人が貧しい人とされます。引用元のイザヤ書には、「打ち砕かれた心」とあり、打ち砕かれた心を持つ人に福音が告げ知らされるというのです。このイザヤ書には次のような神の言葉があります。

「わたしが顧みるのは、苦しむ人、霊の砕かれた人、わたしの言葉におののく人」(イザヤ65:2)。

 これが貧しい人です。神さまは苦しむ人を顧みてくださるのです。霊が打ち砕かれとありますが、心を低くする人、謙遜に自分の罪を思い悔い改める人、そして、神さまの言葉を真剣に受けとめる人を神は顧みるというのです。つまり、信仰に生きようとしながら、苦しんでいる私どもこそ、貧しい者であり、そして喜ばしき救いを受け取るのです。私どものために、主イエスがおいでになったのです。


 荒野を旅したイスラエルの民は、神は本当に我々を助けるのだろうか、と神に対する不信感を表しました。これは魂の砕かれた人の態度ではありません。自分は神の救いを要求などできない者で、ただ神の憐れみにすがるほかないものであると認める人、それが霊の砕かれた人です。この人々は、苦しみや束縛の中にあって、謙遜に神に信頼し、神に助けを求めるのです。そのような人々に福音を告げるために、主イエスは神から遣わされたのです。苦しみからの解放と自由を与える神の福音を伝えるのです。


 神様はあなたを苦しみから解放してくださるのです。苦しむ人々を束縛から解放するために、自由を与えるために、活動をすると、主イエスは宣言されたのです。


祈り

天地の創造主にして私たちの主なる神
あなたの御名を崇めます。
あなたが憐れみをもって私たちを罪の支配から、そして私たちの心を束縛する様々な思いか私たちを解放し、自由にしてくださった救いの恵みを感謝します。主イエスが私たちのために自らを犠牲にして、この救いを与えてくださったことを感謝します。
主イエスは、私どももとらわれから解放し、圧迫から自由にしてくださいます。閉ざされていた目を見えるようにしてくださいます。
この救いの恵みを我ら一同に与えてください。
この恵みを受けていない人がいましたら、注いでください。
苦しみの中にある人があなたの救いを求めることができるよう導いてください。
イエス・キリストの御名により祈ります。