クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

本日のメッセージ(2011.2.27)
聖書 ルカ4:14〜30 神の言葉を聞く


 今、日本人の平均寿命は80歳を超えると言われています。ですから40才を過ぎれば、マラソンでいう折り返し地点を過ぎることになります。そして死に向かって生きることになります。人は死を恐れます。人は死を越える希望を持つことを願います。聖書は、主イエスがご自分の死によって、悪魔を滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放したと告げます(ヘブライ2:13)。主イエスは、私どもを死の恐怖の奴隷状態から、解放してくださるかただというのです。すごい言葉があるな、と最初に読んだとき思いました。


 私どもは永遠の命の希望を与えられ、死んだ後は、神の国に迎えられると信じます。だから私どもには希望があります。そして、神の国に対する確信をガッチリ持てれば、もっと喜びをもって、人生の後半を生きることができるのではないか、と思うのではないでしょうか。その確信はどのようにして得ることができるのではないか、と思うのではないでしょうか。この確信がほしいために、私は信仰に生きているような気がします。逆に言うと、そのような確信を与える信仰とはどういうものなのか、を考えながら、そのような信仰に歩みたいと願っています。今日も聖書に聞きましょう。


 主イエス安息日に会堂に行きました。会堂、それは今で言えば、教会に当たると考えてよいでしょう。その会堂で礼拝がささげられていました。主イエスは、イザヤ書から朗読をし、人々に話をされました。会堂に集まった人々は、ナザレの村の人々です。ナザレは主イエスの育った村です。ですから、主イエスのことを小さい頃から知っている人たちが聞き手でした。ナザレの人々は、会堂で主イエスの話を聞きました。そして主イエスの口から出る恵みに満ちた言葉に驚いたとあります。


 会堂では、毎週安息日に礼拝が守られ、律法の教師が聖書を朗読し、聖書について教えていました。主イエスの話を聞いた人たちは、いつも聞いている聖書の話とは違って、全然違っていて、聞いていて心に喜びが湧いてくるのを感じたのです。いつもと違って喜びが湧いてきたので、驚いたのです。ルカ福音書の5章1節では、人々はイエスから、「神の言葉」を聞こうとして、イエスの周りに押し寄せています。ナザレの人々も、主イエスの口から神の言葉を聞いたのです。そして驚いたのです。神の言葉を聞く喜びと驚きが彼らを包んだのです。彼らの心は、主イエスの口から出る恵み深い言葉を喜んだのです。


 ところが、彼らの頭は、喜んでいませんでした。つまり彼らは、「この人はヨセフの子ではないか」と言ったのです。<恵み深い言葉を確かに聞いたが、語ったのは、イエスではないか、ヨセフの子ではないか。我々はイエスを子供の頃から知っているではないか>。そう考えたのです。彼らは、何が語られたかよりも、誰が語ったのかに心が捕らわれていたのです。ナザレの人々は、主イエスを子供の頃から知っていました。主イエスは身近な存在でした。そのことが、主イエスの恵み深い言葉を受け入れることの妨げとなりました。村人は、自分たちのよく知っているイエスが語ったからと言って、語られたことを、結局、受け入れなかったのです。頭で聞いて、聞き流す結果になってしまったのです。


 それで主イエスは、「医者よ、自分自身を治せ」ということわざを引用しました。これは、あなたが医者だというなら、自分自身を治して、医者の資格があることを見せよ、という意味のことわざです。人々が「ヨセフの子ではないか」と言ったとき、もしイエスが、わたしの言うことを信じなさいと言えば、きっと人々は、「カファルナウムでしたことをここでもしてくれ」と言うに違いない、つまり、おまえを信じるために、証拠を見せてほしいというに違いないとイエスはおっしゃったのです。カファルナウムというのはガリラヤ湖畔にある町の名前で、主イエスがしばしば活動なさった町です。ナザレの人々は何も言いませんが、そんな気持ちだと主イエスは見抜いたのです。


 さらに主イエスは、「はっきり言っておく」と言います。これは「アーメン、私は言う」という文章です。私どもは祈りの最後にアーメンと言います。アーメンは「その通りです」との意味で、他者が祈ったとき、アーメンと言って、私もその祈りに同意しますと気持ちを表現する言葉です。自分の祈りの最後でアーメンと言いますが、真実な祈りですとの意味です。しかしここでは、「アーメン、私は言う」という表現です。この表現は、ヨハネ福音書でしばしば用いられる表現です。たとえばこう主イエスはおっしゃいます。

「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハネ3:3)。

「はっきり言っておく。だれでも水と霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできない」(3:5)。

 「アーメン、私は言う」という文章、「はっきり言っておく」と訳されたこの文章は、非常に重大なことを発言するときに主イエスが使う表現となっています。真剣に聞き、真剣に受けとめるべきことを語ります、という気持ちを表す言葉です。


 そして主は語ります「預言者は故郷では歓迎されないものだ」。故郷では、人々はその人のことをよく知っているからという理由で、預言者の語ることを聞こうとしない、預言者を歓迎しないと言ったのです。預言者は、神の言葉を語る人です。人々は預言者が、同じ故郷のよく知っている人だからという理由で、預言者の語ることを受け入れないと述べたのです。


 聖書を読めば、預言者は故郷で歓迎されないだけではなく、神の民イスラエル全体に歓迎されなかったことがわかります。エレミヤという預言者は、ひどい迫害を受けました。エレミヤが語った言葉は、悔い改めを迫る言葉でしたので、人々は聞きたくなかったのです。それで歓迎しなかったし、迫害さえしたのです。


 さらに主イエスは、旧約聖書に出てくるエリヤとエリシャという二人の預言者のことを話します。二人の預言者の物語については、ここでは詳細に話す時間はありません。主イエスは、二人の預言者が、イスラエルの人のところではなく、異邦人のところへ神から遣わされたと告げます。そして二人の預言者は、異邦人に恵みを施したのです。神の民イスラエルが不信仰なために、預言者たちは異邦人に遣わされ、そこで恵みを施したと主イエスが語ったので、それを聞いたナザレの人々は怒り、主イエスを殺そうとしました。


 マタイ、マルコ両福音書においても、主イエスがナザレの会堂で話をされたとき、人々は、この人はヨセフの子ではないかと言います。そして主イエスは、「預言者は故郷では敬われないものだ」と言います。それでナザレの村での出来事は終わりです。ところがルカ福音書においては、主イエスはさらに発言をし、ナザレの人々によって殺されそうになったと物語の経過を伝えます。ルカ福音書は、主イエスの活動を伝えるとき、このナザレでの出来事を最初に語るのです。


 このことは、主イエスの働きはすべての人に受け入れられるものではなかったことを告げているようです。主イエスは人々を病から救い、悪霊を追い出し、障害をいやし、人々に解放と自由を与えました。そしてその語る言葉を聞いて人々は驚き、主イエスの話をさらに聞くべく、多くの人々が主イエスのあとをついて回ったのです。しかし、主イエスは宗教指導者たちから拒絶されました。そして十字架で処刑されてしまいます。この出だしは、十字架を暗黙の内に予想しているのです。


 今日の聖書は、私どもに一つの問いを投げかけているように思います。

「あなたは何を聞いているのか」。

 私自身は、今日の聖書を読んで、まず、自分の中にもしるしを求める気持ちがあることを知らされました。神の国は本当にあるのか、神の国を確信を持って信じることができるために、神にしるしを見せてほしい、という思いがあります。あるいは神はどんなしるしを見せてくださっているのかと考えます。確信を与えられれば、もっと喜んで信仰に生きることができるのに、という思いがあります。そして「あなたは何を聞いているのか」との問いかけを聞きます。説教を聞いている皆さんは、今何を聞いているのでしょうか。皆さんは、神の言葉を聞いているのです!


 神の言葉とは何でしょうか。神さまが語るということですが、現実には説教者という人間が語っています。それが神の言葉だとどうしてわかるのでしょうか。神の言葉とは何でしょうか。神の言葉とは、応答をせざるを得ないような言葉のことではないでしょうか。神が語られ、それを聞いていた人間が聞きっぱなし、聞き流すことができるでしょうか。人間の言葉なら、聞くふりをしたり、聞き流すこともできるでしょう。聞き逃すことができない、聞いたら、それに応答をせざるを得ない、それが神の言葉なのではないでしょうか。しかも神の言葉は恵みに満ちた言葉です。ナザレの人々も、主イエスの口から出る恵み深い言葉に喜び驚いたのです。


 しかし問題があります。<だれが神の言葉を語るのか>です。ナザレの人たちは、ヨセフの子が語っているという理由で、主イエスの語った神の言葉を退けたのです。誰が語るのか、そこで人は躓くのです。あの人の言うことなら聞く必要はない。私どもは、人を見るのです。神の言葉を聞くことを妨げるのは、人間のプライドです。自分の方が上だと思うから、人の語る言葉を聞けないのです。


もう一つの問題は<何を聞くか>です。パウロはこう言います。

「もし今なお、人の気に入ろうとするなら、わたしはキリストのしもべではありません」(ガリラヤ1:10)。

 キリストのしもべは、人々が喜ぶようなことを語るとは限らないということです。神の言葉というのは、恵み深い、それは事実です。でもそれは、人が必ず喜ぶとは限らないのです。神の言葉というのは、誰もが、これは素晴らしいと感激して、神の言葉と認めるとは限らないのです。勿論、人を励まし、慰めを与える言葉もありますが、人をいさめる言葉もあります。そして人は、フィルターをもって聞きます。つまり自分の聞きたい言葉だけを聞くのです。聞きたくない言葉は聞かないのです。


 私どもはいつ神の言葉を聞くのか。一つは礼拝です。神は神の言葉を語らせるために、人をお立てになり、礼拝において語らせます。人間が語ります。説教者は、いかにも神の言葉を語りそうな人に見えるとは限りません。そして神の言葉として語られることは、誰が聞いても神の言葉だと感激するものとは限らないのです。


 もともと人間は、神の言葉を語ることはできません。しかし説教者は、語るように神から召されるのです。語り得ないことを語るという矛盾に生きるように命じられているのが説教者です。説教者は自分の語るつたない言葉が、神の言葉として用いられるように祈るしかありません。


 神は人間に語るために、説教者を用いることを選んだのです。使徒パウロは、テサロニケ教会の人たちが、自分の語る言葉を神の言葉として聞いたことをいつも感謝すると述べています。なぜいつも感謝するのか。皆さんにはいつも感謝することってありますか。人の語る言葉を神の言葉として聞く、それは奇跡に等しい出来事なのだと教えられます。


 ナザレの人々は、主イエスの口から出る恵み深い言葉を心では喜んだのです。しかし頭で聞いたために、その喜びを失ってしまいました。私どもは、神の言葉を聞いたとき、心がどう反応したかに注意すべきです。心が喜んでいるのに、しばしば頭が妨げるのです。逆に、神の言葉はいつも心地よいとは限りません。だから、心が聞きたくない、と反発するときがあります。その時は頭で冷静に、聞くべきです。だから私どもは、自分がどう聞いているかに注意しなければなりません。自分を吟味しなければなりません。説教を聞いたときの心の反応、頭の反応を吟味するのです。


 神さまはどうでも良いことを語られません。私どもに恵みの言葉を語ってくださるのです。神さまは、私どものことを十分に知っておられ、私どもに必要なことを語ってくださいます。あるいは神さまは、私どもが自分のことをもっと知るようにと、私どもの心を映し出す言葉を語られます。神の言葉は、私どもの応答を引き出さずにはおれないのです。また応答する心をもって聞くのが神の言葉です。


神の言葉を聞くときに必要なことがあります。祈りです。

  • 応答に迫られるものとして神の言葉を聞くために必要なことは祈りです。
  • 応答をする備えをもって神の言葉を聞くために必要なことも祈りです。

祈ると何が起きるのでしょうか。テサロニケ教会の人々は、

聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、主に倣う者となった」(テサロニケ一1:6)

とあります。喜びをもって神の言葉を受け入れるという出来事が起きるのです。 神の言葉というものがあることを知るのです。その前に畏れ、ひれ伏し、応答すべき言葉があることを知るのです。神がまことにおられることを知るのです。


 神は、説教者が語る言葉を神の言葉として聞かせてくださることによって、臨在されるのです。それ故、神の言葉こそ、確信の源なのです。どんな奇跡を見ても、信仰の確信は生まれません。奇跡による確信を求める人はいつも奇跡を求めます。神の言葉を受け入れ、神の言葉によって生きる人こそ、確信を持つことができるのです。


 確信は、神の言葉が真実であることを知るに応じて、神から与えられるものです。だから私どもは、真剣に神の言葉を慕い求め、これによって生きるのです。

「いかに幸いなことか、主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむひと」(詩篇一)。


祈り

イエス・キリストの父なる神、あなたを崇めます。今日も聖書から、教えられ感謝します。あなたの言葉を聞くことができるという奇跡を待ち望みます。人間の思いを超えて、あなたの言葉は真理で有り、恵みに満ちたものであることを信じます。良薬は口に苦いと言います。あなたの言葉は感動に満ち、聞いていつも喜べる者とは限らないことを思います。自分の罪、不信仰の故に、あなたの言葉の輝きが私たちには隠されています。聖霊によって私たちの心を照らし、あなたの言葉を聞くことのできる者へと導いてください。そのために祈りをもって期待をして待ち望みます。私たちに命を与えるために、語ってくださるあなたをたたえます。イエス・キリストの御名によって祈ります。