クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

聖書 ローマ 12:9〜21
説教 泣くも人と共に泣きなさい


はじめに


 一昨日、巨大地震が起きました。皆さんの親族や友人、知り合いで被災された方がおられるでしょうか。もしいらっしゃいましたら、お見舞い申し上げると同時に、神様の助けを心からお祈りいたします。


 金曜日、キリスト教入門の学びの終わり頃、「揺れていますね」とクリスマスに洗礼を受けた竹内さんが言いました。私は感じませんでしたが、またすぐに揺れました。今度は感じました。ガタガタという短い周期の揺れではなくゆ〜らゆ〜らという長い周期の揺れでした。学びが終わったとき、妻が、大変な地震が仙台の方で起きたみたいと知らせてくれて、それからはテレビに釘付けとなりました。。


 夜、岩手県の大船渡市で大きな被害が出たとのニュースを聞いて、そこには大船渡教会があるなと思い出しました。この教会からは、何年か続けて会堂建築募金の依頼書を受け取りました。会堂を建てましたが、借金返済のために、募金を続けていたのです。


 インターネットで教会の場所を地図で確認しました。すると大船渡市は、海に面していますが、川沿いに町があり、津波が川沿いに逆流すれば、津波の被害を受けるなと直感しました。昨日の朝テレビを見ると、町は無残な姿をさらしていました。教会がどうなったのかはわかりませんし、牧師家族、信徒の方々が、避難したのかどうかもわかりません。無事を祈るしかないですが、人ごととは思えない巨大地震です。


 「街が消えた」という新聞の見出しを見た時には、思わず泣いてしまいました。


 人によって被災状況は違いますが、家族を失い、家を失い、それまでの人生で築いてきたものをすべて失うという悲劇に突然見舞われ、茫然自失状況に追い込まれての絶望感、これらのことを想像すると、悲しみが一挙に襲ってきました。本当に悲しい出来事です。


被災者にとっては、悲しみだけではなく、空しさや、憤りや、絶望が入り混じった、大変な経験だと思います。これから気持ちの整理、生活再建に向けて、大きな試練をくぐることになります。神様の慰めと励ましを祈るものです。


 土曜まで説教の準備をしてきましたが、予定された聖書の箇所の説教でいいのか、という疑問を抱きました。私どもも含め、日本中が大きな悲しみの中にあるとき、聞くべき聖書の言葉があるのではないか、と考えました。祈りつつ与えられた箇所に基づいて、共に聖書に聞きたいと思います。


1.理不尽


 そして与えられたのは、ローマの信徒への手紙の12章からの言葉です。「泣く人と共に泣きなさい」。この聖書の言葉に聞きたいと思いました。


 ある人は、なぜ、

  • 神はこのようなことが起こるのを許されるのか、と思うかもしれません。
  • 沢山の人命が奪われるような災難がなぜ起こるのでしょうか。
  • 神がいるなら、なぜ、このような悲劇を起こすのでしょうか。
  • このようなことが起こるのを神は防ぐことができなかったのでしょうか。
  • 神が愛であるというのは本当なのでしょうか。
  • いや、神なんて、いないのではないか、

そんな疑問が信仰者の中にも生じるかもしれません。突き詰めて言えば、神は本当に正しい神なのか。あるいは本当に全能の神なのか、という疑いが生じます。旧約聖書に登場するエレミヤという預言者は神に向かって言います。

「わたしはあなたと争い、裁きについて論じたい。なぜ、神に逆らう者の道は栄え、欺くものは皆、安息に過ごしているのですか。あなたが彼らを植えたので、彼らは根を張り、育って実を結んでいます」(エレミヤ12:1)

悪人が栄える現実を前にして、エレミヤは神に疑問を投げかけるのです。なぜ、神に逆らう者が栄えるのか。それだけではなく、彼らが栄えるのを神が手助けしているのではないか、と抗議もしています。


 旧約聖書には、ヨブという人物がいます。彼もまた同じ問題で悩んだのです。彼は、神ご自身からも正しいと認められる人物でした。その彼が謂われなき苦しみを味わうのです。最初に災難によって子供たちや財産をすべて奪われます。さらに、頭のてっぺんから足の裏まで、ひどい皮膚病にかかります。彼は素焼きのかけらで体中をかきむしります。大変な苦痛です。彼は妻から、

「神を呪って死ぬ方がましでしょう」

と言われます。彼のもとに友人が来て、慰めようとします。そしてなぜ自分がこのような目に遭うのか、理由がわからない、と神に抗議するのです。


 私どもは、神について、全能の神と告白します。そして神は、この世界を支配しておられると、私どもは信じます。神が世界を支配する神であると信じつつ、思いがけない大地震による被害に直面するとき、本当に神を全能と告白していいのか、という思いにもなるのではないでしょうか。これに対して、どう答えたらよいのでしょうか。


ヨブの友人は、神は正しい神であるから、ヨブが何か罪を犯しているから、その裁きが下っているのであると、ヨブに罪を悔い改めるように迫りました。神を正しい神と論じていくと、誰かを、何かを悪者にするという結果になりかねません。ですから私は、それでも神は正しいと論じることはしません。しかし、それでも神は正しい神であり、全能の神であり、世界を、歴史を支配する神であると告白していきたいと思います。


なぜこのような巨大地震が起きて、多数の犠牲者が出るのか、それはわかりません。しかし、このことの中にも、何か神様のみ心があると信じ、信仰者としての歩みをしたいと思っています。


2.寄り添う神


 津波が市街地の民家を飲み込み、破壊し、残されたのは水浸しの、あるいは空襲を受け焼けた後のような光景がテレビに映し出されました。そこには人が住んでいたとは思えないほどです。人が生活していた後をぬぐい去るほどの津波の被害です。ニュースでは、壊滅状態と報道しました。恐ろしい表現です。このような光景を主イエスが見たら、どのような反応を主は示されるのでしょうか。主イエスは、涙を流されるに違いない、と私は思いました。

  • 長い人生を生きてきた自分のふるさとが、破壊され尽くされてしまう悲しみ。
  • 自分の生きてきた痕跡がきれいにぬぐわれてしまう空しさ。
  • 愛する家族を喪い、それまでの人生で築いてきたものが失われる事への憤り、
  • そして、不安だらけの将来に向けて希望が見えない絶望。

 打ちひしがれた人々を見て、主イエスは涙を流されるに違いない。いや、今涙を流しておられる、私はそう思っています。

 聖書が告げる神は、打ちひしがれる者と共におられる神、寄り添ってくださる神です。

 旧約聖書出エジプト記において、イスラエルの民がエジプトで奴隷として苦しんでいました。その苦しみの中から救いを求めて叫ぶイスラエルを神は憐れみ、彼らをエジプトの苦しみから救い出しました。神は、ご自分のことをイスラエルに紹介するとき、「私は憐れみ深く、恵みに冨む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち」と語りました。

  • 主イエスはあるとき、ご自分についてくる群衆が、飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、彼らを憐れまれた、とマタイ福音書にあります(Mt9:36)。
  • あるいは、主イエスは、病気で苦しんでいる家族を抱え、また、どのように生きたらよいのか、確信もなく、その時、その時の状況に流され、思い悩みの中にいる人々を見て、憐れみを覚えておられます。
  • あるいは、エリコの町を通ったとき、主イエスが来られると聞いた盲人は、道ばたに座って「主よ憐れんでください」と願います。その時も、主イエスは、深く憐れみ、その盲人たちの目を開かれました。
  • さらに主イエスがナインという町を通られたとき、そこで葬儀の列に出会いました。たった一人の息子が死んで悲しみの中にある母親、しかもやもめである女性を見て、主イエスは憐れまれました。憐れみから、その息子を生き返らせています。


 主イエスは、私どもを憐れんでくださるおかたです。


 多くの人は何らかの破れを抱えながら生きています。何もかもうまくいっているという人はいません。破れを隠し、人生うまく行っていると見せて生きている人も多いのではないでしょうか。心の中には人に言えない悩みを抱えています。そうして、何とか自分の力で生きているのです。人から憐れまれるほど自分は惨めではないと言ったりします。


 自分の弱さを認め、神の前に、私は無力です、あなたの憐れみにすがりますとは、なかなかいえない私どもです。自分のプライドがあるので、自分の力で何とかできるはずだと頑張ります。そして頑張りきれずに倒れたりします。


 私どものいちばんの惨めな点は、私どもが罪に支配されている点です。罪の種をまいて刈り取っているのが私どもの人生ということもできます。


 多くの人が同じように破れを抱えて生きています。だから自分の人生に問題があるとは感じない人もいます。しかし自分の罪、弱さ、頑なさ、高慢に打ちひしがれるとき、主イエスは、憐れみをもって私どもに近づいてくださいます。私どもの弱さ、罪、破れに共感し、私はあなたと共にいる、と励ましてくださいます。


3.主イエスに倣って、我らも寄り添って


 だから私どもも、自分のことのように、他の人たちの弱さ、悲しさ、罪に、共感を持って近づくことができるのではないでしょうか。主イエスのように、私どもも近づくことができるのではないでしょうか。


 今日の聖書は、愛に生きるように、様々な勧めがなされています。その中で、「泣く人と共に泣きなさい」と命じられています。「泣きなさい」と命じられています。


 普通、ある気持ちになるとき、私たちは泣きます。泣くという行為は、普通、感情の高ぶりがもたらすものです。いきなり、泣きなさいと言われても、戸惑いを覚えます。映画やドラマでは、「ここは泣く場面だから泣いてください」と役者は泣く演技をします。見事に涙を流し、泣きます。でも「泣きなさい」と聖書が命じるとき、それは演技が求められているのではありません。


 今日の聖書の13節には、

「聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい」

とあります。「聖なる者」とは、信者を指します。あるいは、福音を宣べ伝えながら旅をする人を指しています。他者の貧しさを自分のものと考えて振る舞うように命じられています。それが愛だからです。16節には、

「互いに思いを一つにして」

とあります。愛するということは、感情に動かされて行動するというより、意志が生み出す行動です。こうしよう、と思って行動するのが愛です。


 主イエスは隣人愛を教えられました。「人からしてほしいと思うことをしなさい」。私があの人の立場にあったら、何をしてほしいと思うだろうか、と想像力を働かせ、してほしいと思うことをしなさい、という教えです。


 被災し、深い絶望に突き落とされた人の気持ちがわかるかと言われたら、わかるとは言えません。想像することしかできません。家を失った人、家族を失った人、畑が使えなくなった人、畑の実りを失った人、仕事場を失った人がいます。同じような経験があれば、「あなたの気持ちはわかります」ということができます。しかし、あのような甚大な被害をもたらす出来事に遭遇する経験は滅多にないものです。


「泣きなさい」、それは、被災者の抱く様々な思いを自分のものとしなさいということではないでしょうか。彼らと思いを一つにしなさいということではないでしょうか。


もし自分がそうなったらと想像することはできます。自分も同じ目に遭ったらと想像するとき、その悲しみ、空しさ、憤り、絶望が、私どもの心に迫ってくるのではないでしょうか。被災者の思いが自分の胸に迫ってくるとき、私どもも主イエスのように、涙を流すのではないでしょうか。


 被災者は、今は突然起きた出来事の中で、気持ちを整理する余裕はありません。今しなければいけないことをするので精一杯です。涙を流し泣く暇はありません。やがて生活再建に向けて歩みだします。自分が失ったものの大きさに愕然とし、生活の再建に向かいます。その時になって、涙を流されるのではないでしょうか。


ですから、「泣きなさい」と私たちが命じられるとき、彼らの気持ちと一つとなって泣くと言うだけではなく、そのような辛い状態の中でも、それにもかかわらず、人生には生きる価値があり、私たちは希望をもって生きていけるということを伝える、それが「泣きなさい」という命令の意味ではないでしょうか。 主イエスは涙を流しながらも、悲しむ人により添い励まされると信じます。私どもは問われるように思います。

  • あなたは、悲しくても、空しくても、憤りがあっても、絶望に崩れ倒れそうになっても、それにもかかわらず、なお人生には生きていく価値があると信じて生きていくことができますか。
  • あなたは、悲しくても、空しくても、憤りがあっても、絶望に崩れ倒れそうになっても、それにもかかわらず、なお神様の助けを得て生きていく希望のあることを信じて生きていくことができますか。


何があろうと生きる意味を見出し、神からの希望に生きるとき、私どもは、泣く人により添い、励ますことができるのではないでしょうか。何が起きても、人生は、生きるに値し、神様の助けを得て、望みを持って生きることができると伝えることができる者になる覚悟が問われています。この覚悟に生きるとき、私たちは、被災者に寄り添うことができるのではないでしょうか。主イエスは十字架の道を歩みます。主イエスもそのような覚悟の中で、寄り添っておられるのではないでしょうか。


祈り


 天にいます父なる神様、あなたをたたえます。
一昨日、巨大地震が発生し、大きな被害が発生しました。多くの人命が奪われました。この事態に際し、ただあなたの導きと守りを願うのみです。一人でも多くの人の救出が成し遂げられますように。余震による新たな被害が生まれることがありませんように。愛する家族を亡くした方々に慰めを与えてください。また生活再建に向かう人々に勇気を与えてください。国もまた、そのために最大の支援をなすことができるように導いてください。また私どもも、共に泣き、自分にできることを見出すことができますように。
 福音を宣べ伝えるために教会が建てられていました。会堂が流された教会もあると思います。礼拝をする場を失った人たちがおります。礼拝をする信者を失った教会があります。ただただあなたの憐れみを求めます。教会が再建され、賛美の声が響き渡るようにと願います。被災地に信仰の火を絶やすことがありませんように、お守りください。イエス・キリストの御名により祈ります。