クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

本日のメッセージ(2011.3.27)
聖書 ルカ4:42〜44 神に遣わされる


 テレビでは、地震の被災者の生活状況を報道しています。一日も早く生活再建へ向けて動き出すことができるようにと祈らされます。ある被災者が、

「家族は皆死んだ。ひとりで生きていかなければならない」

と話しておりました。もし自分がその立場だったら、どうやって生きていくのだろうか。地震が発生してから、ずっと考えています。この人に何を語ることができるのだろうか、と考えつつ、今日の聖書を読みました。


 「朝になると」。前日は安息日でした。安息日が終わる夕暮れから、病気で苦しむ人を抱えている人たちが病人を主イエスのもとに連れてきました。そして主は、病人の一人一人に手を置いて癒やされました。夜の何時頃まで、癒やしの働きをしていたのか分かりませんが、主は、苦しむ民を憐れに思い、病気を癒やされたのでした。


 そしてどれほど睡眠時間を取ったのか分かりませんが、夜が明けると主イエスは、人里離れたところへ出て行かれました。これは祈るためです。独り静かに祈ろうとされたのです。ところが、群衆は主イエスを捜し回りました。いやしてほしい病人がまだ沢山いるのでしょう。群衆は、主イエスを見つけると、自分たちから離れていかないようにとしきりに引き留めました。この時、主イエスは、はっきりと言われました。「他の町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない」。群衆の願いを振り切って主イエスはカファルナウムの町を去ります。

  • この主の言葉には、主イエスのどんな自覚があるのでしょうか。
  • 主イエスはどんな思いからこの言葉を語られたのでしょうか。


 「告げ知らせなければならない」という言葉に注目します。告げ知らせることが、わたしの義務であり、私にとってそうすることが必要だという表現となっています。これは人間として、そうするのが義務であるとか、そうする必要性があるという意味ではありません。これは、前もってそうすることが神の計画として定められており、いわば神の定めなので、それを行うという意味なのです。


 神の定めに従うことと、神の掟に従うことは違います。神の掟はすべての人が従う必要があります。しかし神の計画、神の定めは、具体的な特定の人に神が与えられるものです。ここでは、神の国の福音を告げ知らせることが、主イエスに与えられた神の定めだというのです。自分の使命だというのです。この文章には、ギリシャ語の dei という特別な言葉が使われています。この dei という言葉が使われる文章が他にもあります。主イエスは後に弟子たちにご自分の運命を語ります。

「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」(ルカ9:22)。

 この文の中に dei があります。この言葉がどのように訳されているかというと、「必ず、・・・することになっている」と訳されています。神の定めとして、あるいは神の計画として、主イエスは必ず苦しみを受け、殺され、復活することになっているというのです。


 主がいつ、自分に与えられた神の定めを知り、受け入れたのかは、明確には書かれていません。主が洗礼を受けた時、「あなたは私の愛する子、私の心にかなう者」という神の声を聞いた時、主イエスは、自分の行く手に待っているのは、苦難であり、死であることを知ったと思います。そしてその定めを受け入れ、メシアとしての活動を始められたのです。


 神様は私どもにも、神の定め、計画をお与えになるのではないでしょうか。身近な例で言えば、「牧師になりなさい」という神の促しを感じ、これを受け入れることは一つの例です。「あなたは信仰を持って生きるように」という促しも、あなたに対する神の定め、神の計画です。主イエスはこう言われました。

「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(ヨハネ15:16)。

  • 信仰を持つとは主の選びを信じることです。
  • 主の選びを自分に対する神の計画、神の定めとして受け入れることです。


 教会学校の教師として奉仕する、長老として奉仕する、これもそうです。CS教師任職式、長老任職式で、この働きにつくことは神の召しだと信じますか、という問いがなされ、「信じます」と答えて、務めにつきます。任職式の時にはっきりと神の自分に対する定め、召しと信じることのできる人もいれば、奉仕を続ける中で、この奉仕に自分を召す神の呼びかけを心で聞き、受けとめていくようになる人もいるでしょう。あるいは信仰によって子供を育てることを自分に対する神の定めとして受け取る人もおられることでしょう。職場で、神と人を愛する生き方を貫くことを神からの定め、使命と受け取る人もおられるでしょう。


 このように自分に対する神の計画、定めを、私どもの心は聞くのです。それは小さな声かもしれません。しかし、確かなものとして聞くことができるし、神は語ってくださるのです。主イエスも自分に対する神の定めを聞かれたのです。


 主イエスは「私はそのために遣わされたのだ」と言います。神の定めを受け入れた人は、自分は、その神の定めに生きるように神から遣わされているという自覚を持つのです。主イエス神の国の福音を告げ知らせる定めを受けいれ、そして自分は「遣わされたのだ」と語ります。神に遣わされた、だから、自分は使命を果たさなければならない、そういう思いから、他の町にも行かなければならないと言って、群衆の願いを振り切ります。


 面白いなと思うことがあります。それは使命という言葉です。日本語は使命とは、命を使うと書きます。命を使い、命を削ってある働きを行います。消しゴムがあります。消しゴムは字を消す働きをします。消しゴムはその使命を果たす時、まさに身を削ります。最後には、自分という存在がなくなり、使命を果たし終えます。命を使う、それが使命に生きることだというのが日本語です。


 英語で使命をミッションと言います。ミッショナリという言葉は宣教師を意味します。ミッションという言葉には派遣されるという意味のあることがわかります。ミッションという言葉は、その働きに自分が遣わされていることを意識する言葉です。


 Realize your Mission。あなたの使命を実現しよう。北陸学院のテーマです。神様から与えられた使命に生きよう、神様から使命を与えられ、この世に遣わされていることを知ろうとの呼びかけです。


 日本語では、命を使う、それが使命です。英語では、遣わされる、それが使命です。この場合、誰が自分を遣わすのか、を意識することになります。つまり、自分は用いられる存在だということです。


 キリスト教入門の学びで、進化論の話をすることがあります。進化論は、創造主なる神を認めません。突然変異の連続で色々な種類の植物、動物が発生したという考えですから、存在するものは偶然の産物となります。だから人間もたまたま発生した存在であり、私どもの存在も偶然の産物となります。偶然存在するものに、存在の意味はありません。だから生きる意味も、生きる価値もありません。それが進化論の行き着く先です。


 だから人は自分の存在に、人生に意味を見出すために、価値あること、使命を見出そうとします。自分の命を使う価値あることを見つけそれを行うわけです。私も若い時、死の恐れを空しさを克服することを考え、そのために命を捧げても惜しくないことに取り組みたい、と考えたことがあります。


 神を信じる者は、神に遣わされて生きることに使命を見出すのです。そして遣わされて生きる、用いられて生きる、そこに喜びや生き甲斐を見出します。主イエスは言われます。

「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」(ヨハネ20:21)。

 主イエス神の国の福音を告げ知らせるために自分は遣わされていると語りました。人々に神の国の福音を告げ知らせ、人々がこの福音を受け入れることを目的としています。人々が福音を受け入れて生きることを願っています。それは人々の救い、人々の幸せを願ってのことです。神に用いられ、神から遣わされて使命に生きる人は、愛に生きるのです。


 説教の最初に、地震の被災者の言葉を紹介しました。「家族は皆死んで、自分だけが生き残った。ひとりで生きていかなければならない」。もし自分がその立場だったら、どう生きていくのだろうか。生きていけるだろうか、と思いめぐらします。キリスト者はその答えを持っていると思うからです。そう思いめぐらす中で、私は一つの声を聞きました。

「生きよ」。

  • 外から来る声です。
  • 向こうから来る声です。
  • 「生きよ」と語りかける神の声です。


 この声こそ、人を生かす力になる、いや、私を生かす声だと思いました。生きるとは、神に遣わされて生きることなのです。


 「生かされている」と多くの人が言います。わたしを生かすものがあるということです。自分を生かすものについて人々は語りません。ただ「生かされている」というのです。「何事のおはしますかは 知らねどもかたじけなさに 涙こぼるる」という歌がありますが、何ものかに生かされている、そのことを感謝しよう、というのが多くの人の気持ちのようです。


 私どもは、自分を生かす方を自覚するのではないでしょうか。「生かされる」とは、神様に遣わされることだと知ります。すべてのものを失っても、「生きよ」と言って、自分を生かす神がいることを知る、その神に生かされる、それが人生の目的だと知らされます。すべてのものを失っても、なお人生に目的と意味を見出すことができるなら、それこそ真の希望です。


 神は、「生きよ」とわたしたちをこの世に遣わされる方です。どのように生きるか、それは人それぞれです。そして神は、人それぞれに、神の計画、神の定めを与えて生かしてくださいます。主イエスは主に与えられた神の定めに生きようとしておられます。


祈り
主なる神、あなたを崇めます。私どもはあなたにより命を与えられ、生かされております。生かされるとは使命に生きること、あなたに遣わされて生きることと教えられ感謝します。
どうかここにいる一人一人の者が、その心で「生きよ」というあなたの声を聞くことができますように。「私はあなたを遣わす」との声を聞き、果たすべき使命をあなたから受け取ることができますように。イエス・キリストの御名により祈ります。