クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

本日のメッセージ(2011.4.3)
聖書 ルカ 5:1〜11 お言葉ですから


マタイ福音書、マルコ福音書にも、主イエスが漁師たちを弟子にする物語が書かれています。それは不思議な内容になっています。マルコによるとこう書かれています。

「イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう』と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った」(マルコ1:16〜18)。

 いきなり「わたしに従ってきなさい」と言われて、網を捨てて従うというのは不思議です。今日のルカ福音書では、イエスが漁を終えたシモンに近づき、シモンを弟子にした物語が詳しく書かれています。


 イエスがゲネサレ湖、つまりガリラヤ湖の湖畔に立っておられると群衆が神の言葉を聞こうとしてイエスの周りに押し寄せたとあります。4章の最後に、イエスユダヤの方に行ったと書かれています。イエスガリラヤに戻ってきたことを知った群衆がイエスのもとに、神の言葉を聞こうとして押し寄せてきたのです。


 二そうの舟が、岸にあるのをご覧になった主イエスは、そのうちの一そうであるシモンの舟に乗り、岸から漕ぎ出すように頼みました。舟から岸辺の群衆に向かって話をするためです。そして話が終わるとシモンに「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われました。シモンは、「お言葉ですから」と主イエスの言われた通りに網を降ろします。そしてあまりの大漁に驚いて、「主よ、私は罪人なのです」と告白します。主イエスは、彼に「あなたは人間を取る漁師になる」と言います。つまりシモンは主イエスの弟子となるのです。


 そこで思うのは、シモンが弟子に選ばれた理由です。主イエスは、シモンが、「私は罪深い者なのです」と告白したから、彼を弟子にするのでしょうか。自分の罪を認める謙遜な人だから、弟子に選ばれたのでしょうか。それとも、「お言葉ですから」と言って、主イエスの言葉に従うから、彼を弟子に選んだのでしょうか。それとも最初から弟子に選ぶつもりでいたのでしょうか。


 シモンが罪を告白したから、あるいは、お言葉ですからと言って従ったから弟子に選ばれたとすると、シモンには弟子となる資格があるから選ばれたことになります。それとも最初から弟子に選ぶつもりでおられたのなら、この選びは恵みの選びということができます。どちらなのでしょうか。主イエスは、恵みをもって近づかれる方なのではないでしょうか。

そうです、主イエスは、主イエスの方から私どもに近づいてくださる方なのです。


 今ここには信仰を持っている人が多くおられます。私どもが信仰を持つのも、主イエスが私どもに近づいてくださったからではないでしょうか。ある人は友人に誘われて教会に来て、信仰を持つようになります。この場合、主イエスは、その友人を通して近づいてくださり、その結果、信仰を持つようになったと言ってよいのではないでしょうか。


 ある人は、親が信仰を持っていました。そして親に連れられて教会に来ます。やがて信仰を得ます。この場合も、主イエスは、親を通して近づいてくださったと言えるのではないでしょうか。さらにある人は自分で教会に行ったと言うかも知れません。教会の存在を通して、主イエスは近づいてくださったと言えるのではないでしょうか。
主イエスが私どもに近づいてくださったから、私どもは選ばれて信仰者になったと言ってよいのではないでしょうか。実際、主イエスはこう言っておられます。

「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなた方を選んだ」(ヨハネ15:16)。

 ここにはまだ洗礼を受けておられない方もおられます。今、主イエスは洗礼を受けておられないあなたにも近づいておられるのではないでしょうか、あなたに信仰を持ってほしいと。主イエスを信じるとの信仰の告白をしてほしいとあなたに近づいておられるのではないでしょうか。


 主イエスはシモンに「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言いました。シモンは「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが何もとれませんでした」と答えます。その上で「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えます。この言葉はシモンのどんな気持ちを表しているのでしょうか。


 シモンは、夜通し漁をして一匹の魚も捕れなかったのです。勿論、疲れているでしょう。収穫がなく、空しく思う気持ちもあったでしょう。そして何よりも、漁は夜、暗いときにするもので、明るいときにするものではありません。この時漁をすると言うのは、漁師の常識からすれば、あり得ないことなのです。それなのに主イエスは網を降ろしなさいと言います。ですから、ペトロの気持ちは、この時間に漁をするなんて、あり得ない。魚はとれないだろう。なぜ、網を降ろせなんて言うんだろう。主イエスは立派なことを話すかも知れないが、漁に関しては素人だ。そんな風に、主イエスの言葉を素直には従えない心でいたのですが、むげに拒否もできないので、「網を降ろしましょう」と言ったのでしょうか。
それとも、夜通し働いても収穫はなかった。しかし今、主イエスは網を降ろせと言われる。きっと魚はとれるんだ、そう期待して網を降ろしたのでしょうか。


 網を降ろしたら、おびただしい魚が網にかかったとあります。そこでもう一そうの舟にいる仲間に合図をして来てもらえるように頼んだのです。そして網を引き上げてみると、魚は、それぞれの舟にいっぱいで舟が沈みそうになるほどでした。これは大漁です。おそらく、漁師たちが経験したことがないほどの大漁です。ですから漁師たちは驚きました。「これを見たシモン・ペトロは」と聖書はここで初めて、シモンと呼ばれる人がよく知られた主イエスの弟子、ペトロであることを告げています。このシモン・ペトロが、「主よ、私から離れてください。私は罪深い者なのです」と言います。


 ここで見落としてはいけないことは、ペトロの主イエスに対する呼び方です。5節で網を降ろしなさいと言われたときペトロは、「先生」と主イエスのことを呼んでいます。しかし、ここでは「主よ」と呼んでいます。先生という尊敬を表す呼び方が、主という神に対する呼び方に変化します。主よ、という呼び方は、神よ、神さま、と呼びかける言い方と同じです。


 ペトロは、目の前に神がいると感じたのです。そして「主よ、私から離れてください」と言ったのです。それは自分が罪深い者であると思っての言葉です。それは、汚れた者が神のそばにいると自分が滅びてしまうという思いからの言葉です。ペトロはなぜ、自分が汚れたものだという思いを持つようになったのでしょうか。


 それは、「夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。お言葉ですから、網を降ろしましょう」と言ったときの、ペトロの気持ちと関係があるのではないでしょうか。
夜通し働いても収穫はなかった。しかし今、主イエスは網を降ろせと言われる。きっと魚は捕れるんだ、そう期待して網を降ろしたのであれば、思いがけない大漁を見て驚き、主イエスをたたえたのではないでしょうか。ですから主イエスの言葉に不承不承従ったからこそ、つまり主イエスの言葉を軽んじたからこそ、自分を罪深い者と感じたのではないでしょうか。


 自分が神を軽んじていたことに気がつかされるとき、人は自分が汚れた者であると身にしみて思わされるのです。昔、イスラエルダビデという王様がいました。彼は人妻に心を奪われ、姦淫を犯し、それをごまかすために、その夫を戦場に送って戦死をさせました。姦淫と殺人の罪を犯したのですが、権威の頂点に立っていたために高慢になり、自分の罪に気づきませんでした。しかし家来のナタンがその罪を指摘したとき、ダビデは、「私は主に罪を犯しました」と罪を認めました。ナタンに罪を咎められたとき、愕然としたに違いありません。ダビデは、

「神よ、わたしを憐れんでください。罪を清めてください。わたしの内に清い心を想像してください」と祈ります(詩篇51)。


 主イエスが私どもに近づいてくださり、私どもは信仰者になりました。主イエスは、私どもに神を崇め、神を敬い畏れて生きることを求めておられます。しかし、私どもも、神を軽んじ、ないがしろにすることがあるのではないでしょうか。


 この社会では、この世の価値観が支配していて、聖書の教えを貫いて生きるなんて無理だ。それではこの世を渡って生きていけない、と言って、神の戒めを軽んじることがないでしょうか。主イエスは私どもに「新しい戒めを与える」と言って、私どもがいかに生きたらよいか教えてくださいます。


 私どもは、いろいろな理由をつけて、従うことを拒んでいることが多いのではないでしょうか。赦せない思いを持っている人は多いと思います。なぜ赦さないのですか。赦しを求めることが必要だと思っていても赦しを求めない、なぜですか。ペトロのように「お言葉ですから」とさえ言わないで、すませていることがあるのではないでしょうか。「お言葉ですから」と言って従ったら何が起きるのでしょうか。ペトロの場合は、思いがけない大漁でした。


 ペトロは、自分の罪深さを感じました。それは雷で打たれるように、頭をガアンと打たれたように、自分の罪を感じたのだと思います。イザヤという預言者も、自分が神の前にいると感じたとき、「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者」と告白しています(イザヤ書6章)。


 ペトロは「主よ、私を離れてください」と言いました。しかし主は、「恐れることはない」と告げます。なぜでしょうか。イエスのもとには赦しがあるからです。だから主から離れるのではなく、主のもとに行くのです。預言者イザヤに対して、神の使いは、祭壇からとった炭火を彼の口につけ、あなたの咎は取り去られたと宣言しました。神のもとには赦しがあるのです。「主よ、離れてください」というのではなく、主のもとに行くのです。赦しを受け取るのです。


 「主よ、私から離れてください」「災いだ、わたしは滅ぼされる」。これは自分の罪を知るという点では、原点のような体験です。頭のてっぺんから足のつま先まで、自分は罪のそのものであるという認識です。


 ペトロのことでわかりますが、罪とは不道徳なことをすることではありません。罪の本質は、神を軽んじること、神をないがしろにすることです。私たちは理屈をつけて、それを正当化するのです。だから自分の罪深さに気がつかないのです。しかし、そのことに気がつかされるとき、私どもは自分の内に、よいものが何もないと思い知らされるのです。その時、私どもは、死ぬのです。そして赦しを受け、新たに生きるのです。


 その時、私どもは神の言葉を聞き、それに従うことを喜びとするようになるのです。自分はよいことをしていると考えてクリスチャンを迫害していたパウロは、復活した主イエスに出会い、自分が神の敵となっていたことを知らされ、罪人の頭という自覚まで持つようになりました。主イエスから福音を宣べ伝えるようにという使命を与えられるや、喜びをもって生涯その使命に歩みました。ペトロもまたここで、「人間をとる漁師になる」との言葉をいただき、そうなるべく、すべてを捨てて主イエスに従いました。


 すべてを捨てるとは、漁師の常識に従うのではなく、お言葉に従うことです。人間の思いで生きるのではなく、神の言葉によって生きることです。私どもは神の前に自分の罪を認めることに恥ずかしさを覚える必要もないし、罪と認めて、自分を価値のないだめな人間だと考える必要もありません。神のもとに行き、赦しをいただくのです。その時私どもには、新しい心が与えられ、神さまの呼びかけに喜んで従う者とされるのです。ペトロがそうでした。パウロもそうでした。彼らに倣って多くのクリスチャンが、神を崇める信仰者として歩んだのです。


祈り
 憐れみと慈しみに富みたもう父なる神様、恵みをもって私たちに近づき、わたしたちを信仰に導き、罪の支配から救ってくださったことを感謝します。エジプトでの奴隷状態から解放されたイスラエルの民は、荒野を旅する時、あなたに信頼し、あなたをまことに崇めることが求められていましたが、彼らは、あなたを軽んじました。崇めることをしませんでした。私たちも人生という荒野を旅するなかで、あなたを軽んじることが多いことを赦してください。ペトロのように、「お言葉ですから」と言って、あなたにお従いすることができるように助け導いてください。
 お言葉ですからと従った時に、何が起きるのか、そのことを期待して、あなたに信頼して生きる者とならせてください。私たちが、あなたの救いと恵みの証し人となり、口を開くことができますように。イエス・キリストの御名により祈ります。