クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

本日のメッセージ(2011.4.17)
聖書 ルカ 23:26〜43 主イエスの執り成しを受けて生きる


 聖書には四つの福音書があります。福音とは喜ばしい知らせ、との意味です。今礼拝では、その内の一つルカ福音書を読んでいます。どの福音書もイエスの生涯、そして特に十字架の死に至る経過を丁寧に述べています。


 十字架の場面は印象的です。特に主イエスの語る言葉が心に残ります。マタイとマルコは同じ言葉を書いています。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」。これは

「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」

という意味です。絶望の叫びです。ところがルカ福音書では、

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」

とご自分を十字架につけた者たちのために、その罪を赦してくださいと祈っています。とても対照的な主イエスの言葉です。今日はルカ福音書の、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」に注目したいと思います。


 27節に十字架を背負って歩く主イエスの後ろに民衆と嘆き悲しむ婦人たちが大きな群れを作っていたと書かれています。主イエスは婦人たちに

「私のために泣くな、むしろ自分と自分の子供のために泣け」

と言われました。不思議な言葉です。この婦人たちがどのような人たちかははっきりしていません。主イエスと行動を共にした婦人たちがいたし、主イエスの働きに心惹かれていた女性たちかもしれません。あるいは、「泣き女」と呼ばれる人たちかもしれません。イスラエルでは、葬儀が行われる時、泣き声をあげる人が集められたそうです。悲しみをいっそう募らせるのです。主イエスが十字架で死を遂げるので、そういう女性が後ろを歩いていたのかもしれません。


 主イエスはこの女性たちに、「私のために泣くな、むしろ自分と自分の子供のために泣け」と告げました。自分のために泣け、どういうことでしょうか。主イエスが十字架で死ぬことは悲しいことです。しかし、もっと悲しいことがある、そのために泣きなさいというのです。もっと悲しいこと、それは何でしょうか。それは、神の裁きが自分の身にくだることを知って泣きなさいということです。神の怒りが自分の身に降ることから逃げることができないと知って泣きなさいということです。


 29節、「人々が、『子を産めない女、産んだことのない胎、乳を飲ませたことのない乳房は幸いだ』という日が来る」と主イエスは述べました。これはどんな日かと言えば、神の怒り、神の裁きがくだる日のことです。その日、子供を産めないということで恥を得ていた女は、身軽なために神の裁きを逃れることができるので幸いだ、という意味です。


 旧約聖書には、神の裁きが下り、人々が滅びたという話が書かれています。ソドムとゴモラの町の滅び。この二つの町の堕落がひどく、神はこの二つの町を滅ぼすことにします。神は天から火を降らせ、滅ぼします。この時、ロトという人物の家族は、神の使いから、町から出て逃げなさいと促しを受けます。ロトの家族は逃げるのですが、ロトの娘の夫たちは、そんなことが起きるものかと信じないで町に残ります。その結果、町と共に滅びます。またノアの洪水の物語があります。この世界全体が堕落しているのを見て、神はこの世界に生きている者をすべて滅ぼそうとします。そしてノアには、箱舟を作り、洪水から逃れるようにしなさいと命じます。ノアがばかでかい船を作っているのを見て、人々は理由を聞いたことと思います。神が洪水をもたらすと聞いても、信じません。やがて洪水が来て人々は死んでしまいます。


 ソドムとゴモラの町の人々は、堕落した生活に、つまり自分の欲を満たす生活に喜びを覚えていたのであり、自分が神の怒りを招く者であることを知らなかったのです。ノアの時代の人々も同じです。人間というのは自分が何をしているのか知らないものです。「そんなことはない、人は自分が何をしているのか知っている」と言われるかもしれません。しかし自分の行いが、それが神の怒りを招くものとなっていることには気づいていないのです。そしてソドムとゴモラの町の人々、ノアの時代の人々がそうですが、神の裁きがくだった時には、後悔してもどうにもならないのです。


 30節の言葉、「そのとき、人々は山に向かっては、/『我々の上に崩れ落ちてくれ』と言い、/丘に向かっては、/『我々を覆ってくれ』と言い始める」という言葉は、神の怒り、裁きが厳しく、いっそ死んだ方がましだという気持ちを言い表している言葉です。
主イエスは婦人たちに言われるのです。自分と自分の子供のために泣きなさい。あなたがたも自分のしていることが分からない、神の怒りを自分に招く者であることを知らないでいる。神の裁きを自分の身に招く者であることを知って泣きなさいというのです。


 そうは言われても、自分が神の怒りを招くような者であることを知ることは簡単ではありません。たいていの人は、人に迷惑をかけていないし、まじめに生きているというに違いないからです。だから「泣け」と言われても泣けません。婦人たちに対する主イエスの言葉、それは、私たちに投げかけられた言葉でもあります。人は自分が滅びに値する人間であることをなかなか知ることができないのです。


 33節「そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。」とあります。その後、主イエスは、「父よ、彼らをお赦してください」と祈っています。この「彼ら」とは誰のことなのかが、明確には語られていません。26節でも「人々はイエスを引いていく途中」とあります。ルカ福音書では、人々が主イエスを「されこうべ」と呼ばれるところまで連れて行き、イエスを十字架につけています。


 人々って、ローマの兵士じゃないの、と思われる方もおられると思います。マタイ、マルコ福音書では、ローマの兵士たちが主イエスを処刑場まで連れて行き、十字架につけています。ルカ福音書は、イエスを十字架につけたのが「人々」とあいまいに書いています。どうしてなんだろう、と聖書を読んで疑問に思います。そして主イエスは、この人々について、その罪を赦してくださいと神に祈られました。


 ルカ福音書で、「人々」とあいまいなのは、主イエスが執り成したのは、ご自分を十字架に追いやった人々、十字架につけた人々だけでなく、私どもを含めたすべての人のために、彼らの罪を赦してくださいと祈られたのではないか、と思わされます。そして主イエスは続いて、「彼らは、自分が何をしているのか知らないのです」と語ります。人間は自分が何をしているのか知らない、自分で知らないまま神に背き、神に対して罪を犯していると主イエスは考えておられるのです。


 イエスを十字架につけたのはローマの兵士です。彼らは、自分の職務に忠実なだけです。イスラエルの宗教指導者たちは、主イエスと対立しました。主イエスが、自分を神と等しい者であるとしているのを見て、神を冒涜していると考え、主イエスを死罪にしようとするのです。彼らなりに信仰に生きているのです。ローマの兵士も、宗教指導者たちも、人々も、皆、自分が何をしているのか知っています。しかし実は知らないのです。知らずに、救い主を十字架につけて殺すことに加担しているのです。


 私どもは、心の欲するままに生き、欲の赴くままに生きています。それでよしとしています(エフェソ2:3)。神を忘れて生きる時、その歩みは罪となります。神の怒りを身に招く者となります。罪とは、神を認めないことです。神は私どもを創造された方です。この方を認めないことが罪の根本です。神に背く時、人の行いは、神の御心に反するものとなり、人の生活に悪い結果をもたらすものとなります。


 「泣きなさい」と主イエスは言われますが、すぐには泣けないのが私たちです。それは、自分の罪を認めたくない、頑なさが私たちの中にあるからです。自分の罪を認めると、自分が惨めに思えるのです。人間というのは、頑張れば、自分はちゃんとやっていけると考えたがるのです。自分の無力さ、頑なさ、罪を認めたがらないのです。


 でも、自分の罪を認めてよいのです。自分の弱さ、至らなさ、頑なさを認めることは悲しいことです。ても、惨めなことではないのです。聖書はこう言っています。

「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせる」(コリント二7:9)。


 主イエスは、私どもが、罪を犯し、神の裁きを招く者であると指摘しますが、私どもを責めているのではありません。主イエスは、私どもの罪のために「父よ、彼らを赦してください」と祈ってくださっているのです。私どもは、この主の祈りのもとで生きることが赦されているのです。


 主イエスと一緒に十字架につけられた一人の犯罪人は、主イエスをののしりました。しかしもう一人の犯罪人は、「イエスよ、あなたが御国においでになる時には、私を思い出してください」と語ります。これは、自分のしたことを知り、罪を悔い改め、イエスに憐れみを求めている人の姿です。主イエスは、憐れみ深い方であり、悔い改めを軽く見ることはありません。むしろ喜ばれるのです。この犯罪人に「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と祝福されました。


 自分のために泣きなさい、それは悔い改めへの招きです。神なしに生きることから神に立ち帰ることへの招きです。悔い改めとは、神を認めない生き方をやめ、神を信じて生きるという方向転換を意味します。私どもは悔い改めていいんです。悔い改めることこそ、自分を生かす道、救う道なのです。「父よ、彼らの罪を赦してください」と祈りつつ、私どもの悔い改めを待っておられるのです。


祈り
正しい神、同時に愛と憐れみに満ちたもう神。あなたを崇めます。主が十字架につけられるのは悲しいですが、私どもがあなたに裁かれることは、言いようがないほど悲しいです。主は、私どもの罪を赦してくださいと祈られ、十字架の上で、私どもの代わりに、神の怒りを受けてくださいました。主イエスが死んでくださったおかげで、私どもは罪が赦され、方向転換して、神様と共に生きることができるようにされたことを感謝します。造り主なるあなたを認めず、自己中心的に歩み、心の汚れた者である自分が、あなたの赦しのもとにあることを教えられ感謝します。あなたの救いをたたえるものとして歩むことができますように。イエス・キリストの御名により祈ります。