クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

礼拝後、教会総会。新しい長老が選出された。新しい年度が始まる。長老会は男性と女性が半々の構成になる。

本日のメッセージ(2011.4.24)
聖書 ルカ 24:36〜43 信じられない喜び


 キリストを信じる信仰の特徴の一つは、喜びではないでしょうか。「いつも喜んでいなさい」という命令があります。喜ぶことが命じられているのです。どうしてそんなことを命じることができるのか、と不思議に思う方もおられると思います。しかし、喜びがキリスト信仰の特徴です。信仰者の心の底にはいつも喜びがあるのです。


 たとえ私どもが悲しみの中にあっても、苦しみの中にあっても、辛くても、空しく感じても、なお、私たちの心の底に流れる喜びがあるのです。今日取り上げる聖書が語る、とてつもない喜び、信じられないほど大きな喜びこそが、その喜びです。


 ルカ福音書の24章には、週の初めの日の出来事が書かれています。まず、1〜12節に墓に行く婦人たちの物語が書かれています。週の初めの日の明け方早く、婦人たちが墓に行きました。それは主イエスの墓です。主イエスは金曜日に十字架につけられて亡くなりました。そして夕方、墓に納められるのを婦人たちは見届けました。金曜日の夕方から土曜日の夕方までは、安息日です。イスラエルでは、安息日は労働を休む日であり、神を礼拝する日でした。そこで婦人たちは、日曜の朝早く主イエスの墓に行きました。


 イスラエルにおける墓は、横穴の奥に遺体を納めるようになっており、墓の入り口は、大きな石でふたをするようになっていました。婦人たちが墓に行くと、ふたとなっている石が転がっており、墓の中に入ることができました。墓の中には、主イエスの遺体がないのです。婦人たちは途方に暮れました。するとそこに輝く衣を着た二人の人が現れ、「あの方はここにはおられない。復活なさったのだ」と告げるのです。


 さらに「あの方が以前、お話になったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっていると言われたではないか」。そして婦人たちは、そう語った主イエスの言葉を思い出します。そこで婦人たちは戻り、主イエスの弟子たちに、これらのことを話したのですが、弟子たちは、戯言のように思い、婦人たちの語ったことを信じなかったと聖書に書かれています。


 次に13〜35節に、エマオという村に行く二人の弟子の物語があります。二人の弟子がエルサレムから60スタディオン、メートル法に換算すると約11キロほど離れているエマオという村に向かっています。彼らは道々、主イエスのことを話し合っています。そこへ復活した主イエスが近づかれるのですが、彼らの目が遮られていて主イエスだと気づきません。主イエスは、彼らに聖書の話をして、救い主、メシアは苦しみを受け、栄光に入るはずであることを話されました。


 この二人の弟子は、主イエスを自分たちの村、エマオに来るようにお願いし、一緒に夕食をとります。食事の席に着いたとき、主イエスがパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてそれを二人の弟子に渡しました。その時、彼らの目が開け、共にいたのが主イエスだと悟ったのです。


 彼らはすぐにエルサレムに戻ります。主イエスが復活されたことを知らせずにはおれないからです。二人の弟子は、エマオの村で夕食を取ろうとしていましたから、エルサレムに戻れば、夜になります。彼らがエルサレムに戻ってみると、他の弟子たちも主は復活してシモンに現れたと話しておりました。


 するとそこに突然、主イエスが現れたのです。弟子たちの真ん中に立ち、「あなた方に平和があるように」と言われました。すると弟子たちは、亡霊を見ているのだと感じて、恐れおののきました。明らかに、そこに現れた人物は、外見は主イエスでした。エマオ途上の弟子たちは目が遮られていて主イエスだとわからなかったのですが、ここでは外見からして主イエスだとはっきりわかったのです。弟子たちには、死んだ人が生きて姿を現すなどとは信じられません。だから、主イエスが姿を現しても、弟子たちは亡霊だと思ったのです。


 すると主イエスは、「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか」と語り、弟子たちを咎めます。婦人たちが既に、主イエスの復活を語っていました。エマオから戻ってきた二人の弟子も、主の復活を語っていました。シモンつまりペトロも復活の主に出会ったと語っているのです。だから、なぜ、復活された主だと認めず、亡霊だと思ってうろたえたのか。なぜ、復活の主だと認めず、疑ったのかと主イエスは、咎めたのです。


 聖書には、信仰について、こう書かれています。「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」。聞いたことを信じる、そこから信仰が始まるのです。ヨハネ福音書では、主イエスは忽然と弟子たちのいる家の中に現れます。その時、実は、トマスという弟子がいませんでした。そこで他の弟子たちが、私たちは主に会ったと言うのですが、トマスは信じようとしません。釘打たれ、槍で刺された主イエスの体に触れなければ、信じないと語ります。


 8日後、主イエスはもう一度弟子たちに現れます。その時はトマスもおりました。主イエスはトマスに言います。「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」。さらに言います。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである」。


 ルカ福音書でも主イエスは、「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には、肉も骨もないが、あなた方に見える通り、わたしにはそれがある」。こう言って主イエスは手足をお見せになります。すると弟子たちはどうしたのでしょうか。彼らは「喜びのあまり信じられず、不思議がった」とあります。弟子たちは、喜びのあまり信じられなかったとあります。彼らは、体の中を突き抜けるような大きな喜びを感じたのです。あまりにもその喜びが大きく、夢を見ているようで、信じられなかったのです。夢は覚めます。夢が覚めれば現実に戻ります。復活した主イエスが目の前にいる、それが夢のように思えたのです。しかし夢ではありません。


 皆さんにも、喜びのあまり信じられない、そういう経験があるかも知れません。自分にとってはレベルの高い大学を一応は受験した。合格するとは思えないが受験をした。なんと驚くことに合格した。夢なら覚めないで、と思われるような現実。これは喜びのあまり信じられない、ということの例です。


 主イエスはさらにだめ押しをするように、「ここに何か食べ物があるか」と言われ、焼いた魚がさし出されるとそれを食べられました。弟子たちは、目の前にいるのが、確かに主イエスであることを認めざるを得なくなりました。かくして弟子たちは、主イエスが復活したこと、目の前にいるのは、復活された主イエスだと認めたのです。その心は喜びでいっぱいです。

  • どうして弟子たちは、復活した主イエスをすぐに認めることができなかったのでしょうか。
  • どうして弟子たちは、復活された主イエスが目の前にいるのに亡霊だと思ったのでしょうか。
  • エマオ村に向かっていた二人の弟子は、「目が遮られていて、主イエスだとはわからなかった」とあります。なぜ、目が遮られていたのでしょうか。


 世の中で、もっとも確かなもの、もっとも確かなこととは何でしょうか。例外が全くないといってよいほど確かなもの。それは死ではないでしょうか。人間は誰もが死にます。確実に死にます。死なない人はいません。死ほど確かなものはない、人は皆そう考えています。死んだ人が生きて姿を現すということは決してないのです。絶対ないのです。だから、主イエスは復活したと言われても、弟子たちはすぐには信じられないのです。婦人たちが墓から戻って報告したとき、弟子たちは、戯言と思ったのです。


 神が存在する、これはそれほど確かなことではありません。ですから神を信じない人は沢山います。人は他の人との約束をすることがあります。人は約束を守るということも確かなことではありません。約束はしばしば破られます。世の中は不確かなことだらけです。しかし、人は死ぬ。これは確かなことです。これほど確かなことはないのです。死んだ人が姿を見せることは決してない、これほど確かなことはないのです。ですから、弟子たちは、復活された主イエスを見ても、亡霊としか思えませんでした。


 弟子たちにとって、目の前に復活した主イエスがおられるのに、それを信じることができない。それほどに弟子たちにとって、死が確かなものであったのです。しかし、この朝、主イエスが復活した朝、何が起きたのでしょうか。死の確かさが揺らいだのです。死の確かさがグラグラとガラガラと崩れたのです。


 「復活節の疑い」という言葉があります。これは復活を疑うのではありません。誰にとっても確かな事実と思われた死を疑いうるようになった喜びを言い表す言葉です。弟子たちは皆、主イエスの復活を疑いましたが、その疑いを表現する言葉として、「復活節の疑い」という言葉があるのではありません。そうではなくて、死は確かなものではない、と死の確かさを疑い、この確かさから解き放たれる喜びを表現しているのです。死は確かなものではない! これが今日、私たちが聞くべきメッセージです。


 死を確かなものとするとき、死の恐怖が私どもを捕らえるのです。死の恐怖に捕らわれた者は、死から目をそらし、死を考えず、死を忘れて生きようとします。それはまさに死に支配された生き方に他なりません。

「キリストは死を滅ぼし、福音を通して不滅の命を現してくださいました」(テモテ二1:10)。

「ところで子らは、血と肉を備えているので、主イエスもまた同様にこれらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした」(ヘブル2:14〜15)。

 死はもはや恐れるものではなくなったのです。


 既に主イエスはご自分が十字架につき、亡くなられること、そして三日目に復活することを語っておられました。このことを弟子たちは信じていませんでした。信じられませんでした。死が確かであるという考えが、無意識のうちに、彼らの理性にこびりついていたのです。


 死が確かであると考える、そこに、弟子たちの心の鈍さがあるのです。弟子たちの目が閉ざされていた理由があるのです。死ほど確かなものはないと考える心は、鈍い心なのです。鈍い心を持っていた故に、復活した主イエスを認めることができませんでした。そして鈍い心は、聖書の言葉の確かさを疑う心なのです。真に確かなのは、神の言葉なのです。

「草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない」(ペトロ一1:24)。

 真に確かな神の言葉を確かなものとしないとき、他のものが、確かなものの座を占めます。つまり死が確かなものとなって人間を支配するのです。そして死だけではなく、いろいろなものが、確かなものとして私たちを支配します。たとえば人は自分の考えを確かなものとします。神の言葉よりも、自分の考えを上に置き、確かなものとします。その結果、神の言葉を退け、自分の考えをとる、そういうことが信仰者にも起きるのです。起きているのではないでしょうか。


 主イエスの復活、それは神の言葉の確かさが、死の確かさを打ち破った出来事です。復活した主イエスに出会ったとき、弟子たちは喜びのあまり、主の復活を信じることができませんでした。それは、主の復活のあまりの素晴らしさ、それゆえの喜びの大きさに打たれたのです。言葉では言い尽くせないほどの大きな喜びなのです。それは神の言葉の確かさを知る喜びと同じです。言い尽くせない喜びなのです。


「草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない」。このように告白する心は、神の言葉の確かさを知る喜びで満ちた心です。この喜びを私どもから奪うものはありません。この喜びのゆえに、私どもはいつも喜んでいることができるのです。たとえ悲しみや苦しみの中にあったとしても。


 死は、私たちに恐れをもたらします。それ故、死を確かなものとする人の心のそこには、恐れがあります。しかし、神の言葉は、私たちに自由をもたらします。神の言葉を確かなものとする人の心には、自由があり、喜びがあります。


最後に、主イエスが死を滅ぼしたのなら、なぜ、今なお死はあるのか、という疑問を感じるかもしれません。それは、私どもが信仰に生きるためです。

  • 死があるから、死の恐れを抱くから神を求めます。
  • 死があるから、生きることを大切にし、生き方を真剣に考えます。
  • 死があるから、終末を目指して生きることを学ぶことができます。
  • 死があるから、永遠の命の希望に歩もうとします。

祈り
 死の恐れからわたしたちを自由にし、生きる喜びで私どもを満たしてくださった憐れみ豊かな神様、イエス・キリストの復活を心から感謝します。死よりも確かなもの、それはあなたであり、あなたの言葉です。あなたの言葉こそ、真実で、唯一確かなものとする信仰に歩みます。私たちの心の底にあるものが恐れではなく、喜びとなるように、聖霊の導きを与えてください。御言葉の確信を豊かに与えてください。イエス・キリストの御名により祈ります。