クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

本日のメッセージ(2011.5.1)
聖書 ルカ 5:12〜16 退いて祈る主イエス


 今、週報の裏に、神様から与えられた恵みについての分かち合いの文章を掲載しています。これは伝道の文章になるし、お互いにどんな恵みを受けているのかわかります。信仰生活が具体的にどんなものか伝わってきます。私どもの口が開かれ、恵みを語るようになることを主イエスは祈っておられるのではないでしょうか。聖書に聞きましょう。

 今日の聖書は、重い皮膚病にかかった人が登場します。昔の聖書は、この病気のことを「らい病」と訳していました。今、「らい病」は差別語とされ、ハンセン病と呼ばれるようになりました。聖書が言う「重い皮膚病」はハンセン病とは違うのではないか、と考えられるようになり、「重い皮膚病」と訳されています。


 この病気になると感染の恐れがあり、この病気にかかった人たちは隔離されることが神の掟、律法では定められていました。健康な人とは別な場所に住むことを余儀なくされました。またこの病気にかかった人は汚れた者と見なされ、「わたしは汚れた者です。汚れた者です」(レビ記13:45)と叫ぶように命じられていました。非常に悲惨な状態に陥ることになります。


 主イエスがある町におられたとき、重い皮膚病にかかった人が、主イエスを見て、ひれ伏し、「

主よ、み心ならば、わたしを清くすることができます」

と願いました。この病人は、主イエスが自分の病気を治すことができると告白しているのです。


 そこで、主イエスは、「よろしい清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去りました。治ったのです。そこで主イエスは、二つのことを言います。

  • 一つは、主イエスが病気を治してくれたことを誰にも言ってはいけないということ。
  • 二つ目は、祭司に体を見せ、清めの捧げ物をし、人々に証明しなさい、ということです。

 この病気が治った場合、祭司に治ったと判定をしてもらわなければならないのです。治ったと判定をしてもらえれば、自分の家に戻り、普通に暮らすことができるようになります。隔離される必要もなく、また「私は汚れた者」と叫ぶ必要もありません。


 15節で、主イエスの評判はますます広まったとあります。そのために、大勢の群衆が教えを聞いたり、病気を癒やしてもらうために集まってきたとあります。この病人の癒やしは、マタイ、マルコ、ルカ、三つの福音書に書かれています。主イエスが病気を癒やしたこと、この癒やしを他の人に話してはいけないと命じられたことは、共通しています。


 マルコ福音書では、主イエスから「だれにも、何も話さないように気をつけなさい」と厳しく注意されたのですが、この人は、癒やされたことを人々に語り、言い広めたとあります。ルカ福音書では、この人が言い広めたとは書かれていませんが、主イエスの噂はますます広まったと書かれています。


 ここで主イエスはなぜ、この病人に、癒やされたことをだれにも話してはいけないと厳しく命じられたのでしょうか。ルカ福音書4章40節以下では、主イエスは、シモンの家にいて、そこで色々な病気で苦しんでいる人に対して、憐れみを抱き、一人一人に手を置いて癒やされました。その時は、「癒やされたことをだれにも話してはいけない」と命じてはいないのです。


 ルカ福音書の8章26節以下では、ゲラサ人と呼ばれる人々が住んでいる地方に、悪霊に取り憑かれた男がいました。彼は墓場に住んでおりました。鎖でつながれ、足かせをはめられて監視される生活をしていました。その鎖を引きちぎったりして、荒れ野に行き、そして墓場をすみかとしていました。主イエスがこの人から悪霊を追い出したとき、この人は、主イエスについて行きたいと願いを語りました。すると主イエスは、

「自分の家に帰りなさい。そして、神があなたになさったことをことごとく、話して聞かせなさい」

とおっしゃったのです。そして、彼は、主イエスが自分にしてくださったことを町中に言い広めたのです。


 同じルカ福音書の8章49節以下にも注目すべき物語があります。そこでは、娘が今にも死にそうな人が登場します。彼は主イエスに、自分の家に来てくれるように頼みます。主イエスはその人の家に向かうのですが、その途中で、その娘が死んだという知らせが届くのです。すると主イエスは、「ただ信じなさい」とその人に告げます。そして着くとその家に入り、「娘よ起きなさい」と呼びかけると娘が生き返ります。この時も主イエスは、

「この出来事をだれにも話さないように」

とお命じになりました。


 なぜある時は「話さないように」と命じ、別な時は「話しなさい」と命じられるのでしょうか。言うまでもありませんが、主イエスは気まぐれな方ではありません。ある人は、こう述べています。重い皮膚病の人はとにかく祭司に体を見せて癒やされたという証明を得ることが大切なのだから、主イエスがいやしてくれたと人に言うのはいいが、寄り道をしないで早く祭司の所に行きなさいと主イエスがお命じになったのだと説明します。


 しかし、この説明では、死んだ娘が生き返る出来事については説明できません。主イエスの態度の違い、つまり、ある時は、話してはいけないと命じ、別なときには話しなさいと命じる、この違いの理由は何なのでしょうか。


 主イエスが病気を癒やすことができるという噂、評判が広まりました。だから、あちこちから病気で苦しんでいる人を抱えている人は病人を主イエスのもとに連れてきます。そして主イエスは皆癒やされます。そして人々は帰っていきます。主イエスに癒やしだけを求めるのは、いわば「群衆」です。この人々は、主イエスに癒やしを求めますが、癒やしを与えられれば、それ以上、主イエスに関わろうとはしません。


 ルカ福音書の17章に、主イエスがある村に入ったとき、重い皮膚病を患っている10人の人が主イエスを出迎え、言います。「イエス様、どうか、私たちを憐れんでください」。すると主イエスは「祭司たちの所に行って体を見せなさい」と言われるのです。主イエスの言うとおり、祭司たちの所に行く途中で、重い皮膚病は癒やされます。10人とも、祭司のもとに行き、体を見せ、癒やされたとの証明を得たのです。


 その後、主イエスのもとに戻ってきたのはたった一人です。残りの9人は、いやされてよかったと喜び、自分の家に戻ったのです。主イエスのもとに来て感謝を示したのはたったひとりでした。「群衆」というのは、癒やしてもらえば、それ以上、主イエスとの関わりを持とうとはしないのです。自分の必要が満たされれば、それでいいのです。主イエスは群衆には、「話しなさい」とか、「だれにも話してはいけない」とかは言いません。


 神というのは、自分が困ったときに助けてくれればいいのであって、助けてくれたのなら、後は自分のしたいようにして生きるという態度、これが「群衆」の態度です。このような態度を御利益信仰と呼びます。私どもは、このような御利益信仰を私どもの信仰とは違うと言って、御利益信仰を非難することがありますが、案外私たちもこのような信仰に生きていることがあるのではないでしょうか。


 主イエスは、悪霊を追い出してもらったゲラサの人には、「神があなたにしたことを話しなさい」とお命じになりました。なぜ、この人には「話しなさい」と言われたのでしょうか。この人は、悪霊を追い出してもらった後、

「主イエスについて行きたい」「主イエスに従いたい」

と主に願ったのです。この人は群衆とは違います。悪霊を追い出してもらった感謝の気持ちから、主イエスに従いたいと願いました。彼は「主イエスに従う信仰者」なのです。主イエスに従うこと、主イエスのために生きることを願う人になったのです。それ故、主イエスは、彼に、神の恵みを人々に伝えるようにお命じになったのです。


 「神があなたにしたことを話しなさい」との主の命令は、私どもにも向けられているのではないでしょうか。そのように受けとめる、それが聖書を読むと言うことではないでしょうか。聖書を通して神の語りかけを聞くとは、このことではないでしょうか。


 では、今日の聖書で、主イエスは重い皮膚病の人に、癒やされたことをだれにも話してはいけないと命じられたのはなぜでしょうか。死んだ娘を生き返らせてもらった人に主イエスは、なぜ、黙っていなさいとお命じになったのでしょうか。


 主イエスは、この人々に「群衆」になってほしくなかったのです。この人々が、「イエスという人は、病気を癒やしてくれたよ、死んだ娘を生き返らせてくれたよ。すごい人だ」と人々に話をして、人々がなになにと話を聞いてくれて、得意になって話して、それで終わりにしてしまうことを願われなかったのです。主イエスはこの人々に、ご自分と出会って生きるもの、つまり「信仰者」になってほしかったのです。


 自分を苦しめてきた重い皮膚病を癒やしてくれた主イエス。この主イエスと出会ったのです。「いやしてくれてありがとう、さようなら」と言って済ませていいのでしょうか。死んだ娘を生き返らせてくれた人に、「生き返らせてくれてありがとう、さようなら」と言って済ませていいのでしょうか。自分を癒やし、あるいは自分の娘を生き返らせてくれた人との出会い、この出会いをもっと大切にすべきなのではないでしょうか。主イエスは、信仰に生きるように招いているのです。


 そのためには、自分の身に起きたことを人々に話すのではなく、むしろ自分に話し、主イエスとの出会いを受けとめ、イエスを信じることを考えなさいと主イエスは言っているのではないでしょうか。主イエスに出会い、主イエスを信じるとき、新しい人生が開ける、そのことを信じて、信仰者になるように主イエスは招いているのです。


 だからイエスは、黙っていなさいと命じたのです。主イエスは、私どもを困窮から救ってくださるだけではなく、私どもが自分で築く人生よりも、さらに良い人生を与えてくださる方です。だから、私どもはイエスを信じるのです。私どもは主イエスを信じるように招きを受けているのです。


 15節で、イエスの噂はますます広まり、多くの人が集まってきます。だが主イエスは、人里離れたところに退いて祈っておられたとあります。主イエスは、なぜ祈りに赴き、そして何を祈られたのでしょうか。


 大勢の人々が主イエスのもとに来て、自分の語ることを聞いてくれる、つまり伝道が盛んになっていることを神様に感謝する祈りをささげているのでしょうか。さらにもっともっと多くの人がご自分のもとに来て、神を信じ、神の教えを聞いてくれるようにと願われたのでしょうか。それとも、いくら大勢の人が来たとしても、彼らは「群衆」であり、潮が引くようにまた去って行くことを思い、やりきれないような、空しさを感じ、そのことを神様に話されたのでしょうか。私どもは、そんな人間くさい思いを主イエスは感じないはずだと思うかもしれません。しかし主イエスは、

「あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」(ヘブル4:15)

とあります。主イエスも私どもと同じ思いをもたれたと考えてよいはずです。いくら伝道しても集うのは群衆ばかり、と嘆くことだってあり、神様に訴えることもあったのではないでしょうか。病気を癒やし、まことの神がおられることを伝えたのにもかかわらず、つまり、イエスと出会った人々は沢山いるのに、主イエスについて来る人は多くはない。


 なぜ人は、わたしとの出会いを大切に考えてくれないのか。わたしとの出会いが、人間の思いを超えた祝福の人生をもたらすことを信じ、なぜ、ついてきてくれないのか。色々な思いを主イエスは父なる神に打ち明けられたのではないでしょうか。そして集まってくる人々の中から、主イエスを信じ、弟子となってついてくる人が一人でも多く与えられるように願われたのではないでしょうか。


 群衆が多く集えば集うほど、浮かれずに、調子に乗らず、神のみ心に従って、神を宣べ伝える働きに進むことができるように、神に従う人生を歩む人が与えられるように祈ったに違いないと思います。そのために、人里離れたところに退いて祈られたのだと思います。神の御心を見失わないように、心静まって祈られたのだと思います。


 私どもも神に祈ります。主イエス祈りは、神との会話です。神との交わりの中で、自分の思いを告げ、また願い事を述べておられます。私どもの祈りもまた、神様との会話、神様との交わりとなるべきです。願い事の列挙、それは神との会話ではありません。群衆の祈りです。主イエスは、神との会話を繰り返しながら、歩まれました。信仰とは、神との会話をして歩むことです。そのような信仰者を主イエスは求めておられるのです。祈ります。


祈り
 主イエスを通して大いなる力を持たれる方であることを示された
父なる神様、あなたを崇めます。神様が自分の必要さえ満たしてくれればそれで満足するような群衆に囲まれ主イエスは、活動をなさいました。
 多くの群衆が癒やしだけを求めています。しかし主は、「あなたはわたしを清めることがおできになる」と信仰を言い表した重い皮膚病の人に対しては、わたしを信じるようにと招きを与えられました。私どもはあなたを信じて生きる、信仰に招かれています。この信仰生活は、神様によって与えられ、神様によって開かれる人生です。自分で築く人生ではなく、神様によって開かれ、導かれる人生です。
 癒やしの力を通し、主イエスは、神を信じる生活への招きをなさいました。私どももまた招かれております。あなたの招きに応えるもの、あなたのみ心を求めて歩むものとならせてください。イエス・キリストの御名により祈ります。