クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

本日のメッセージ(2011.5.8)
聖書 ルカ 5:17〜26 罪の赦しが目指すもの


今日の聖書も癒やしの物語です。主イエスはある家で教えておられました。そこへ、中風を患っている人が連れてこられました。何人かの男たちが、病人を床に寝かせたまま運んできたのです。ところがその家は、人がいっぱいで、中には入れません。そこで男たちは、屋根に上がって瓦をはがし、そこから病人をつり降ろしました。


主イエスは、この男たちの振る舞いの中に信仰を見ました。イエスは必ず癒やしてくれると信じる信仰、そして家の中には入れないからとあきらめるのではなく、癒やしをあきらめずに求める信仰を見ました。


すると主イエスは、病人に向かって「あなたの罪は赦された」と宣言します。ところが、そこにいた律法学者やファリサイ派の人々、つまり神の教えを研究し、守ろうと熱心に務めている人たちが、心の中で主イエスの行為を咎めます。罪を赦すことができるのは神だけなのに、あなたの罪は赦されるなどと言うのは、神を冒瀆する行為だ、と。


彼らの思いを見抜いた主イエスは、「あなたの罪は赦された」と言うのと「起きて歩け」と言うのとどちらがやさしいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」と言います。そして、病人に「起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と命じます。すると彼は立ち上がり、床を取り上げます。中風が癒やされたのです。主イエスは、罪を赦す権威を持っていることを証明されました。これが今日の聖書の内容です。


この段落は、主イエスが神であり、罪を赦す権威を持っていることを主張する物語ですが、今日の説教では、「あなたの罪は赦された」との主イエスの言葉を考えたいと思います。罪が赦される、このことの意味をご一緒に考えたいと思います。<罪が赦される>ということ、あなたはこれをどう受けとめておられるのでしょうか。


罪というのは、普通悪い行いを指します。大抵の国には法律があります。法律を破る人は、犯罪者となります。法治国家では、犯罪者を捕らえ、裁判にかけ、罪を償わせます。罪を犯す者は、裁きを受けるのです。罪を犯す者は自分の身に裁きを招くのです。


そして聖書も罪を問題にします。聖書が言う罪は、犯罪を犯すことではありません。それは神に対する罪です。つまり神の目に悪しきことをする、それが罪なのです。そして神も罪を放置しません。罪は神の怒りを招き、罪を犯す者は、神の裁きを身に招くのです。聖書にこんな言葉があります。

「わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした」(エフェソ2:3)。

私たちはこの世の中に住んでおり、この世の人々と同じように、自分のしたいことをして生きています。自分のよしとするところに従って生きています。そのこと自体が、神の怒りを受ける罪の歩みだというのです。このことを認めることのできる人もいれば、反発を覚える人もおられるでしょう。


そして今日の聖書で主イエスは、

「人よ、あなたの罪は赦された」

と宣言します。イエスはどんな罪をこの病人に見たのでしょうか。

  • 病人の罪について聖書は何も語っていませんし、
  • 主イエスがどんな罪を見たのかも聖書は書いていません。
  • この主イエスの言葉を病人はどう受けとめたのでしょうか。それも書かれていません。
  • もしあなたが「あなたの罪は赦された」と言われたら、どう感じられるのでしょうか。この主イエスの言葉は、私どもに向けられた言葉であり、あなたに向けられた言葉です。あなたはこの主イエスの言葉をどう受けとめられるでしょうか。

  • 赦しを必要としているようなことは、私は何もしていないとあなたは言うかもしれません。
  • あるいは、「主イエスにそう言ってもらえると安心する」とあなたは言うかもしれません。
  • あるいは、「そう、私は罪の赦しを信じている。神の目に、正しい者とされていることを喜んでいます」と言うかもしれません。


人間は、自分の間違い、過ちをなかなか認めないものです。普段の生活の中でも、人のせいにしたり、みんなもしていると言い訳します。神の教えに対しても、守るのは難しすぎると弁解するかもしれません。あるいは、聖書には「正しいものはいない。一人もいない。人は皆、罪の下にあるのです」と書かれているので、罪を問題にするなら、罪を犯さざるを得ないように人をつくった神に責任があるのだと言う人もいるかもしれません。


人は色々に言うのです。しかし神の目に人は皆罪を犯していることは事実です。神ご自身がそう言っておられるからです。そして聖書は、神に対して罪を犯せば、神の怒りを招き、神の裁きを受けることになると言うのです。私どもは赦しを必要としている存在だと言うことができます。


私どもが人から何かいやなことをされたら、怒るし、赦せないという思いを抱いたりします。何とかして相手に罰を与えたいと思います。でも神の怒りは、聖なる怒りであり、そのような人間の怒りとは違います。そのことは後で述べます。

「人よ、あなたの罪は赦された」

と主イエスは言います。普通、赦しを求めていない人に、あなたの罪は赦されたとは言いません。自分に何かひどいことをした人が、「赦してください」と言ってきたら、「赦します」と言います。そして赦しは、和解をもたらします。「赦してください」「赦します」。これが普通の順序です。


 聖書には赦しに関する主イエスのたとえがあります。ある人に二人の息子がいました。弟のほうが父親に「お父さん、私がいただくことになっている財産の分け前をください」と言います。父親が分けると、下の息子は、全部を金に換えて遠い国に旅立ちます。そして放蕩の限りを尽くして、つまり毎日好き勝手な生活をして、お金をすべて使い果たします。そして落ちぶれ、行き詰まります。


そして彼は、我に返ります。「父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください』と」。


そして彼は家に帰ります。家に戻ってくる彼の姿がまだ遠くにあるのを見た父親は、駆け寄り、息子を抱きます。

「私はお父さんに対して罪を犯しました。息子と呼ばれる資格はありません」との息子の言葉に対して、父は、最上の服を子に着せます。子として迎えるのです。息子の言葉には「赦してください」という言葉はありませんが、「罪を犯しました」という言葉は、「赦してください」というのと同じ表現です。


そして父親は「赦す」という言葉は語りませんが、息子を我が子として迎える姿は赦しを物語っています。父と子の関係が新たに始まります。父と子の和解ができたのです。赦しは和解を目指すのです。赦す者も赦される者も、新しい関係に生きようとするのです。


何らかの関係を持つ者同士の一人が、相手に対して悪いことをすれば、その人間関係にはひびが入り、時に壊れます。しかし悪いことをした人が赦しを求め、悪いことをされた方が赦せば、その人間関係は回復します。


自分の悪事を素直に認めようとしない人間は、なかなか謝ることをしないという現実があります。プライドがそうさせるのです。和解よりも自分のプライドを重んじるのです。そのために謝って関係を回復すれば良いのに、謝らないので関係が悪化することがしばしばあります。そのために夫婦関係、親子関係が冷えていく、壊れていく、そういうことも起きます。謝るべき時にはプライドにこだわらず、素直に謝り、よい関係を回復して生きることが神の御心です。


信仰者は、神に対して罪を犯したと思うときは、神に赦しを求めます。そして同じ罪は繰り返さないように助けてくださいと祈るなら、神は赦しを与えてくださいます。この赦しは、主イエスが十字架で死んだことによって約束されています。言うまでもありませんが、その罪が他の人に対するものであるなら、その人に謝罪をすることも必要なことです。神に真剣に赦しを求めるなら、罪を犯した相手に対する謝罪は必要です。


今日の主イエスの言葉は、

「人よ、あなたの罪は赦された」

です。神の側から、「あなたに赦しを与える」と語られているのです。神の方から、和解を求めているかのようです。相手が謝ってこないために赦せない思いに心が支配されることもあります。それは辛いことです。「赦しなさい」と聖書にあるので、赦さなければと思い、赦せない思いと葛藤するということが起きます。その時はどうしたらいいのかという問いがあります。


 印象に残る話を紹介します。これはICU国際基督教大学)の森本あんり教授の書いた論文の中にある話です。


 1981年、人種差別の残るアメリカのアラバマ州で、一人の黒人青年が殺されました。犯人はKKKクー・クラックス・クラン)に属する白人です。KKKというのは、白人優位主義に立ち、黒人差別をする組織です。警察も裁判所も白人の手に握られているので、なかなか犯人が逮捕されません。殺された黒人の母親が、差別の歴史は我慢することができない、と決意し、FBI(米連邦捜査局)に捜査の再開を依頼します。母親の熱意に動かされ、FBIの捜査によりやがて犯人が捕まり、裁判で、死刑の判決が下されます。
 普通ならここで話は終わり、差別は続くことになります。ところがこの母親は、犯人とその背後にあるKKKに損害賠償を求める裁判を起こします。差別に終止符を打ちたいからです。
 この裁判で、最終弁論の日、裁判長が、「最後に何か言うことがありますか」と白人の被告に尋ねると、彼は言うのです。「わたしとわたしの仲間のすべてに有罪の宣告をしてください。人々がわたしの犯した罪から学ぶように」。

そして黒人の母に向き合い、

「どうか赦してください。私はかけがえのないあなたの息子さんを殺しました。何をしても息子さんをお返しすることはできません。何を差し出しても、あなたが慰められることはないだろうと思います。私は残りの生涯をかけて全力で償いをしたいと思います。どうか、わたしを赦してください」。

被告席でくずおれた彼が、「ゆるしてください」と言ったとき、年老いた黒人の母親は何と言ったのでしょうか。無残に自分の愛する子を殺された彼女です。彼女はゆっくり答えます。

"I have already forgiven you" 

「私はすでにあなたを赦しています」。すでに赦しています! この母親の心の中では、すでに赦しは現実になっていたのです。赦しを与える準備ができていたのです。そして相手からの謝罪があり、赦しが現実となりました。ここに人間の尊さが、人間の人間らしさが最もはっきり輝いている、この赦しが、悲しい事件を乗り越える道を造り出したと森本教授は書いています。彼女は差別のない社会が築かれるために、赦したのです。


赦しを与える、ここには神に似せて造られた人間の人間らしさが輝いているのです。赦せない思いが赦す思いに変えられるのは、新しい関係を築くという思いが恨みに勝利するからです。それは神ご自身が抱く思いに他なりません。神は、罪を犯す私どもに対して、赦しを与える準備ができていることをお示しになりました。つまりイエス・キリストの十字架の死です。神は、私どもが己の罪を悔い改め、神を信じ、神との交わりに生きることを願っておられるのです。


神は罪人である人間を赦し、人間と共に歩もうとされるのです。この神の愛に倣うとき、私どもも、心の内に、赦しの準備ができるのではないでしょうか。赦しを与える、それは和解を目指し、新しい関係に生きようとすることです。信仰とは愛に生きることです。


神の怒り、神の裁きは、人間の怒りとは違います。人間の怒りは自分を傷つけた者に復讐をしようとする怒りです。しかし

  • 神の怒りは、神との交わりに生きるように、私どもを招く聖なる怒りです。
  • 神の裁き、神の懲らしめもまた、神との交わりに生きるように、私どもを招く聖なる裁きであり、聖なる懲らしめです。


赦しが目指すもの、それは和解であり、新しい関係に生きることです。神から赦しを受けるとき、神との交わりつまり信仰生活が始まるのです。