クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

本日のメッセージ(2011.5.15)
聖書 ルカ 5:27〜32 悔い改めに生きる


 礼拝の説教で、「悔い改める」という言葉を時々聞きます。この言葉を最初に聞く人は、自分は悔い改める必要はないと思われるかもしれません。自分は、まじめに善良に生きていると思うからです。自分の行いを改める必要はそれほど感じないからです。聖書が言う悔い改めは、行いを改めると言うよりは生き方の転換、生き方の方向転換を意味します。

 主イエスは、レビという徴税人が収税所に座っているのを見て、「私に従いなさい」とおっしゃいました。するとレビは、「何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った」とあります。主イエスは、「私に従いなさい」とレビに命じたのです。「私に従いなさい」と命じることができる人、それは多くはいません。大きな権力を持つ人が「自分に従ってきなさい。悪いようにはしないから」と言うことがあります。「わたしの言うことに従いなさい」という言葉は、しばしば人をだますときに使われます。「わたしの言うことを信じなさい。わたしの言うとおりにすれば必ず儲かります」。


「私に従ってきなさい」という言葉を聞いて従っていくということは、

  • 自分の人生をその人にあずけることを意味します。
  • 自分の人生をその人にゆだねることを意味します。

 ですから、誰かが「私に従ってきなさい」と言っても私どもは簡単には従えません。いや、そういうことを言う人を私どもは警戒するでしょう。宗教家が「わたしの言うとおりにしなさい」と言ったら、それは危険信号であるということもできます。


 「私に従いなさい」と言うことは、他の人の人生を引き受けることですから、簡単に言える言葉ではありません。しかし、主イエスは、言うのです。私についてきなさい、私にあなたの人生を預けなさい。主イエスの「私に従ってきなさい」という言葉は、招きの言葉です。主イエスに自分の人生を預けることへの招きです。


 牧師と呼ばれる人々は、自分から牧師になりたいと思ってなったわけではありません。「私に従ってきなさい」との声を心で聞いて、それに従っているのです。主イエスに自分の人生を預ける決心をしたのです。主イエスの招きに答える歩みをしているのが牧師です。信仰者もまた、主イエスを信じ、主イエスに従い、自分の人生を主に預けた人々と言うことができるのではないでしょうか。


 主イエスの呼びかけに答える人生は、その呼びかけを聞かなければ始まりません。それは自分で手に入れる人生ではなく、神によって与えられる人生ということができます。人は自分で築く人生を生きるか、神から与えられる人生を生きるか、どちらかを選ぶことができます。神の呼びかけを聞かなければ、神から与えられる人生を選ぶことはできません。


このような呼びかけを聞く、滅多にないことです。これは、自分の可能性の中にはないことです。自分から求めても得ることのできないものです。そもそも神が与えてくれる人生があるなどと思いもしなかった私どもです。主イエスに自分の人生をあずける、ゆだねる、

  • それは幸いなことではないでしょうか。
  • それは神の祝福に満ちたものではないでしょうか。

 幸いである理由、祝福に満ちたものであることの理由を考えます。


 「私に従いなさい」と主イエスは命じます。この服従は強制的なものではありません。この服従は、支配する者と支配される者との間に生じる服従とは違います。自ら、進んで服従するのです。盲従ではありません。マインドコントロールされるわけでもありません。自由な応答としての服従です。そこには、主イエスとの人格的な結びつきがあるのです。主イエスを信頼し、主イエスに従うのです。


 パウロという伝道者がいました。彼は、クリスチャンを迫害する人でしたが、あるとき突然、イエス・キリストを宣べ伝える人に変えられました。このパウロは、キリストに従うことの素晴らしさを次のように述べています。

「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています」(フィリピ3:8)。

 キリストに従う、それはキリストと結ばれて生きることです。

 結婚により男女が結ばれ共に生きていくように、キリストに従うことはキリストと結ばれて生きていくことです。主イエスを愛し、主イエスに愛されて生きることです。主イエスに自分の人生をあずける、ゆだねる、これは主イエスの愛の中に生きることであり、主イエスを愛して生きることであり、そこに幸い、祝福を見出すのです。


 結婚に関する教えとして「妻は夫に従いなさい」という教えがあります。妻の夫に対する服従、これは主イエスに対する服従と似ています。その服従は強制的なものではありませんし、支配されるわけでもありません。人格的な結びつき、つまり愛によって結ばれているところから生じる服従です。


 結婚の素晴らしさが真剣に愛に生きないと分からないように、主イエスに従う信仰の素晴らしさも、信仰に真剣に生きないと分かりません。主イエスに従う、それは主に愛され、主を愛する歩みをすることです。愛に生きる、そこに幸いと祝福があるのです。今日の聖書で、レビが主イエスのために自分の家で盛大な宴会を催し、大勢の人を招いたのは、主イエスに従う素晴らしさを伝えたいと思ったからではないでしょうか。


 ところが信仰を持ちながら、この幸い、この祝福に生きていない人がおりました。レビの家にいたファリサイ派の人々や、律法学者たちです。彼らは主イエスの弟子たちに「なぜ、あなたたちは、徴税任や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか」と非難をしました。


 徴税人とは税金を取り立てる役目の人です。イスラエルローマ帝国に支配されていました。ローマ帝国は税金を集めるために、集める役目をする人を募ったのです。税金徴収権を競売に付し、最高入札者にその権利を与えました。そのようにして税金を集める権利を得た人は、余分に税金を取り私腹を肥やしたと言われております。


 そして支配国であるローマ帝国に仕えるわけです。さらに日頃、ローマ人、つまり神の教えを守らないローマ人と接するので、彼らは汚れていると見なされていました。私腹を肥やし、敵国に仕え、信仰の面では汚れていると見なされたのです。罪人というのは、売春をする女性たちや、神の戒めを守らない人々を指します。


「ファリサイ」という言葉の意味ですが、これは「分離」を意味すると言われています。神の教えを守り清い生き方をすることに熱心な人々をファリサイ派と呼びます。彼らは、神の教えを守らない人たちと自分たちは違うと考えるのです。


 自分を神の教えを守らず罪を犯す人々から分離するのです。そして、徴税人や罪人と呼ばれる人々とは関わりを持とうとしないのです。ですから主イエスが、徴税人や罪人たちとつきあっているのを見て、なぜ、そんなことをするのかと非難するのです。もしあなたが神の教えに生きる人ならなぜ、彼らと交わりを持つのか、と非難をするのです。


 ファリサイ派の人々の信仰の特徴は、立派な信仰者になることを目指す信仰です。そのためにはとても熱心に神の教えを学び、実践するのです。それは、自分の信仰を誇るような生き方となります。立派な信仰を持てることに幸せと満足を見出すのです。言い換えると信仰を手段として、自分の幸せを追求する生き方です。自分の満足を追求する生き方です。信仰は、そして神も、自分の幸福のための手段なのです。


 キリスト教に限らず、信仰に生きる人には、信仰によって心の平安を見出したり、正しい生き方ができると喜んだり、幸福を感じたりする面があります。それは自分のための信仰と言えます。自分の幸せがなくて何のための信仰でしょうか。そう考えるのです。自分のための信仰に生きるとき、他者はどうでもよくなります。他者への関心は薄れます。だから、ファリサイ派の人々は、あの人たちは自分たちと違うと言って、交際をしないのです。それは差別に近い態度ということもできます。


 少なくとも主イエスは、人をその言動で判断して、人を価値づけることはしません。どんな人も主イエスの愛の対象です。神の教えの基本は、神を愛し、人を愛することです。理由をもうけて、ある人々を愛さなくてよいなどと言うことは、神の御心に反しています。ですから、ファリサイ派の人々は、神の目から見れば、主イエスの目から見れば、明らかに罪を犯しているのです。


 こうしてみると、信仰には二つの種類があることが分かります。神と人を愛することを大切にする信仰と、自分のための信仰です。自分のための信仰は神をも利用して自分の幸福を求める信仰です。


 主イエスは「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」と反論しました。悔い改めるという言葉は最初に申し上げましたが、「生き方の転換」です。考え方の転換と言ってもよいと思います。そして、ファリサイ派の人々からは罪人とされ、嫌われたレビは、その方向転換をしたのです。


 彼は、イエスと出会う前は徴税人として生きていました。彼なりに、自分の人生が幸福なものとなるように努力していたと想像してよいと思います。私どももまた自分の人生が幸福なものとなるように努力をしています。


 主イエスと出会い、主から「私に従ってきなさい」と言われたとき、レビは、主イエスに従う決断をしました。聖書には「彼は何もかも捨てて立ち上がり、主イエスに従った」とあります。主イエスの弟子となったペトロも、「今から後、あなたは人間を取る漁師になる」と言われた時、「すべてを捨ててイエスに従った」とあります(ルカ5:11)。すべてを捨てるとは、まず、自分の仕事を捨てて、主イエスに従う生活に入ることを意味しています。さらに自分の幸福のために生きることをやめ、主イエスに人生を預ける生き方を意味します。


 自分のために生きることから、主イエスに人生をゆだねる方向転換。自分のために生きることから、神と共に、他者と共に生きる、言い換えると愛に生きる生き方の転換、これが悔い改めです。


 止揚学園という施設があります。福井達雨という方がリーダーとなっている施設で、知的障害を持った人々と共に生活する施設です。ある時、一人の高校生が止揚学園に来ました。声は小さく、暗い顔をしていました。福井さんがその高校生に聞くのです。

「君は学校で何をして、ここにやって来たんや。明るく笑えへんのか」。

「僕は野球を学校でやっているのですが、いつも練習に遅刻してくる友だちがいて、何度注意しても聞いてくれなかったのです。とうとう絶えられず、その友だちを殴ったり蹴ったりしてしまいました。そしたら、友だちは何も処分を受けなかったのに、僕は停学処分になりました。友だちのほうが間違っているのに、僕だけ処分した学校はひどいです。そんな学校を僕は絶対に赦すことはできないのです」

と怒りが治まらない様子です。それを側で聞いていた、止揚学園の仲間の一人突然言うのです。何と言ったと思いますか。

「あんなあ、僕やったら、遅れる友達の家に迎えに行って、そして一緒に学校で練習するわ。そしたら友だち遅れへんのに」

とニコニコしながら言ったのです。その言葉を聞いて、高校生は急に黙ってしまいました。そしてそれ以来、彼は不思議なことにだんだんと明るくなっていきました。自分のことしか考えないで生きていた高校生が、友達のことを思いやる優しい心の大切さに気づいたのです。彼は言います。

「僕が間違っていたんやと感じたとき、何かが吹っ切れて、心が明るくなりました」。

 この高校生は悔い改めたのです。方向転換をしたのです。自分のために何かを獲得する生き方から、他の人と共にあることを尊ぶ生き方への転換をしたのです。主イエスに人生をゆだねる、それは愛に生きることを大切にする人生を生きることです。何よりも主イエスと共にある生き方への転換。それが悔い改めの意味です。


 神ご自身、私どもと共にあろうとされました。そのことが聖書のテーマです。

  • 神を認めずに自分のことだけを考える生き方から、神と共にあること、人と共にあることを大切にする生き方への転換、
  • 神を信じることも自分の幸せにつなげようとする生き方から、神と共に、人と共にあることを大切にする生き方への転換、

 人々がこの悔い改めをするために、自分は来た、と主イエスは語られます。主イエスと共に生きるために、主イエスに従い、主イエスに自分の人生をゆだねることができる、預けることができる、何と幸いなことでしょうか。愛がすべてなのです。愛がなければすべてはむなしいのです。


 あなたが、主イエスに人生をあずける幸いを知ることができますように。信じて、あずけることができますように。

祈り
 私に人生を預けてみないかと私どもを招きたもう神、あなたを崇めます。幸いな時も逆境の時も、健康なときも病気の時も、富めるときも貧しい時も、どのような時にも、あなたに人生をゆだねることが幸いでありしゅくふくであることを教えてください。主イエスに従うことが、あなたの人生をゆだねる道であることを教えてください。様々な苦しみや辛さの中で、多くの労苦の中で空しさや疲れを覚えているかたたちが、あなたの人生を預ける道があることを知り、苦しみの中にあっても、主にある平安に生きることができますように。イエス・キリストの御名により祈ります。