クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

 今日は午後、石川地区総会が金沢元町教会で開催された。準備を女性を長老がしてくださった。粛々と議事が進められ、予定通りの時間で終わった。


 僕は欲張りなのか、と考える。二兎を追う者は一兎も得ずということわざもあるのだが。


 僕が求める第一のものは、僕の説教の聞き手が、神の言葉を聞くことである。聞き手は神の言葉を聞いたら、反応を起こす。それがどのような反応であれ、そのような反応を起こす言葉を語りたい。説教を牧師という人間の語る言葉として聞き、それに対して反応を起こすことももちろんある。聞き手は、説教を聞けば、何らかの反応は示す。色々な反応があるが、聞き手が、「神から語りかけられた」と思える説教をしたい。


 神から語りかけられたと思えるとはどういうことだろうか。聞き手は説教者が語る言葉を聞く。内容によっては、つまらないとか、以前聞いたことがあるとか、それ知っているよ、とか否定的な反応を示して、耳を閉ざすかもしれない。耳を向けてはいるが、ただ聞いているだけということも起こる。あるいは、聞き耳を立て、強い関心を示して聞き続けることもある。説教で語られた言葉が、聞き手の心に色々な反応を引き起こす。


 先日教区総会があり、閉会礼拝の説教を聞いていた時、僕は、ワクワク感を抱きながら説教を聞いていた。渇くような思いを抱きながら、次の言葉を待ち望む、そんな気持ちだった。神の語りかけを聞く思いがした。牧師会で説教を聞くことがある。このようなワクワク感を感じない説教もある。心の反応は、何を聞いているのか、正直な反応を示しているのだと思う。


 僕が求める第二のものは、聞き手が、自分で聖書を読み、そこから神に語りかけを聞き、それに応答することである。聞く神の語りかけによって生活に変化が起きる。生活が導かれるのである。


 二つのものを求めるのは欲張りかもしれないが、求めざるを得ない。昔先輩の牧師から聞いた言葉。説教には、聞き手に聖書を読みたくなるような気持ちにさせる働きがある。

オオバキスミレ 称名の滝