聖書 ルカ福音書6章20〜26章
メッセージ 幸いな人々
1.導入
教会で会堂建築を行うとき、よく模型を造ります。およその設計図ができたとき、それを模型で立体的に表現すると建物のイメージが湧いてきます。屋根の部分をふたを取るように取ってみることができるなら、中の部屋がどのようになっているのか、どこに台所があり、集会室はどこで、礼拝堂はどこで、と会堂のイメージがはっきりしてきます。そして新しい会堂に対する期待感が盛り上がります。
もし信仰生活の模型と呼べるようなものがあると、信仰生活に対する期待が高まるのではないでしょうか。イエス・キリストを信じて生きるとはどういうことなのかが分かれば、そうか、ではそうしよう、と思いが新たになるのではないでしょうか。そのような模型が旧約聖書にあります。それは信仰生活における希望を示す模型、モデルです。
昔イスラエルの民がエジプトで奴隷として苦しんでいましたが、神様が彼らを奴隷状態から解放し、自由に暮らすことのできる土地、乳と蜜の流れる土地に導かれます。そこは豊かな土地で、牧畜をするにも農業をするにもよい土地なのです。そこに向かってイスラエルの民は旅をします。旅の途中でイスラエルの民はたびたび困難に直面します。その困難を乗り越えて目的地に向かって進む旅、希望を持って進む旅、これは私どもの信仰生活のモデルと呼ぶことができます。
「希望を持って目的地に向かって旅をする」。こういう面が私どもの信仰生活にはあるのです。皆さんはこういうイメージをもって信仰生活を送っておられるでしょうか。
2.愚かな教え?
今日はルカ福音書の6章20〜26節を読みました。これを読んでどんな印象を持たれたでしょうか。「貧しい人々は幸いである。今飢えている人々は幸いである。今泣いている人々は幸いである」。経済的に苦しんでいる人も富んでいる人も、バカバカしいと思われるかも知れません。私どもの常識に反しています。「富んでいるあなたがたは不幸である。今満腹している人々、今笑っている人々は不幸である」。これも愚かな言葉に思えます。
- テレビを見るとバラエティー番組が放映され、それを見て人々は笑うのです。それが楽しみです。
- お料理の番組も多く、おいしいごちそうを食べて満腹することに人は幸せを感じるのです。
ですから、なんて常識外れなことをイエスは語っていることか、と皆さんも思うかもしれません。まともな人間なら、このような教えに耳を傾ける気持ちにはなれないと思っても不思議ではありません。
「飢えている人々は幸い、泣いている人々は幸い」。安っぽい気休めは言うな、そう思われるかも知れません。「富んでいるあなたがたは不幸である。満腹している人々、笑っている人々は不幸である」。クリスチャンは負け惜しみを言っている。そのように受けとめられるかも知れません。喜ばしいメッセージにはとうてい思えません。何で主イエスは、このような教えをなさったのでしょうか。
3.神の国について
「貧しい人々は幸いである。神の国はあなたがたのものである」。
神の国って何でしょうか。ここで主イエ2スが神の国についてどのように述べているのか、聖書を見てみます。
「他の町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない」(4:43)。「イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら」(8:1)
福音は、喜ばしい知らせ、という意味ですから、神の国というのは喜ばしいものであることが予想されます。
「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」(12:32)
あるいは
「子供たちをわたしのところに来させなさい。神の国はこのようなものたちのものである」(18:16)
神の国は、私どもに与えられるものだというのです。主イエスはある時、弟子たちを二人一組にして送り出すとき、こう命じられました。
「『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい」(10:9)
「神の国は見える形では来ない。『ここにある。あそこにあると言えるものではない』。実に神の国はあなたがたの間にあるのだ」(17:21)
神の国は、今、私どもの中にあるというのです。主イエスは十字架にかかる前の晩、弟子たちと一緒に食事をしていたとき、
「神の国が来るまで、わたしは今後ぶどうの実からつくったものを飲むことは決してあるまい」(22:18)
神の国は、将来到来するものだとあります。
「ただ神の国を求めなさい」(12:31)
そして神の国は、私どもが求めるべきものでもあるようです。では神の国とは何でしょうか。それは神さまのご支配ということです。
- 主イエスが多くの病人を癒やし、汚れた霊を追い出したりしたのは、今ここに神さまのご支配がある、ということを伝えるためでした。
- ここに神さまのご支配があるから、病気がなおり、汚れた霊が出ていくのだと主イエスは暗黙のうちに語っているのです。
- 主イエスの奇跡は神が今ここにおられ生きて働いていることを示すものです。
主イエスは、「あなたは神さまのご支配の中を生きることができる。神さまがあなたと共におられる、それは神様の恵みです」と宣べ伝えられたのです。
恵みというのは、一方的に与えられるもの、資格がないのに与えられるもの、それを恵みと言います。私どもに受け取る資格があって受け取る者は報酬と言います。主イエスは恵みとして、人々に癒やしを与えたのです。
わたしにどんな資格があって、神がわたしと共にいてくださると言えるのか、という疑問が生じるかもしれません。私どもに何か資格があって、つまり神の前に立派に生きているから、神が共にいてくださるというのではありません。恵みによって神は共にいてくださるのです。主イエスは多くの病人をいやしましたが、お礼を受け取っていません。価なしに癒やしを与えたのです。癒やしは恵みとして与えられたのです。
4.神の国の二面性
神の国について福音書が述べていることをまとめてみると気づくことがあります。第一に
「神の国は見える形では来ない。『ここにある。あそこにあると言えるものではない』。実に神の国はあなたがたの間にあるのだ」(17:21)
とあるように、神の国は既に私どもの間にあるということです。私どもは既に、神の国に生きているということです。ただし見える形では来ない、とありますので、神の国に私どもが生きているということは、目で見たり、感覚で捉えることはできません。神さまが共にいてくださり、神さまのご支配の中を私どもが生きているということは、信ずべきことだというのです。
第二に、神の国はいつの日か到来するものだということです。
「あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい」(21:31)
神の国は、既に私どもの間にありますが、終末の日に到来するものでもあるというのです。
一言で言えば、神さまは私どもと共にいてくださるが、それは目に見えない。しかし終末の時が来ると私どもは神さまをこの目で見ることができるということです。今の時代、神さまのご支配があることを私どもは信じますが、終末の日が来ると、神さまのご支配は誰の目にも現実になるということです。神の国は既に来ているが、いまだ来ていないということなのです。
神のご支配が今あるということは、神はあなたの状況を変えることができるし、あなたを変えることもできるし、あなたの考え方を御言葉によって変えることができると言うことです。考え方が変われば、世界が変わって見えてきます。
5.信仰生活は旅をすること
信仰生活のモデルがあると最初にお話をしました。イスラエルの民は、奴隷の地エジプトを脱出し、神が与えてくださる土地を目指して旅をしています。神は既に、イスラエルの民をそこに連れて行くと約束しておられます。神さまの約束は確実なのです。何か邪魔が入ってその約束がだめになる、無効になるということはないのです。イスラエルの民は旅の途中で、困難に出会います。
- 神が約束を必ず果たしてくださると信じ、目的地に行くことを楽しみにしているのであれば、
- 困難に遭ったとき、神に助けを求めるに違いありません。
事実神はイスラエルの民を助け、荒野において水を与え、食べ物を与えています。イスラエルの民は、神の約束が実現するまで旅をしますが、神の約束は確実なので目的地に着くことは確実と信じて旅をすることができるのです。
ところがイスラエルの民には、
- 約束の地に連れて行くという神の約束を信じない者、
- 約束の地に行くことはどうでもよいと考える人々がいました。
この人たちは、困難が起こるといつも不平を言いました。目的地を目指していない者は、今が最善の状態でないと困るのです。忍耐できないのです。神の約束を信じる者が、困難に遭って希望を持って忍耐するのと対照的です。今が最善の状態であって欲しいと願う人は、いつも不平を抱くことになりかねません。
信仰生活は旅です。私どもの旅の目的地は神の国です。この世の生活、これは旅です。目には見えませんが、神が私どもと共にいて、私どもの歩みを支え、導かれると私どもは信じます。神の国に今生きていることを信じて、旅をするのです。
6.幸いな人々と不幸な人々
今日の聖書を読みます。「さて、イエスはを目を上げ弟子たちを見て言われた」。イエスは弟子たちに向かって教えられました。一般的に貧しい人ではなく、主イエスの弟子たち、主イエスを信じる人に向けて語られた言葉です。
「貧しい人々は幸いである。神の国はあなたがたのものである」。主イエスを信じる者たちは、たとえ貧しくても、幸いなのだと主はおっしゃるのです。「神の国はあなたがたのものだから」。
つまり、神さまはあなたがたと共にいて、あなたがたは神さまのご支配の中を生きることができるのだからというのです。
- 神はあなたの状況を変えることができます。
- 神はあなたを変えることができます。
- 神はあなたの考え方をみ言葉により変えることができます。
そのようにして神は貧しいあなたを支えてくださいます。だから、あなたがたは幸いなのです!
主イエスの弟子にとって生きるとは、神を崇めて、神に信頼して生きることです。なぜなら、神はこの世界を創造し、人間を創造し、人間に命を与え、人間を生かすかただからです。神は自分が造ったものに責任を持たれるのです。神は人間を愛し、人間の信頼に応えるかたです。神は人間を造られました。人間がどのように生きるべきか、神は私どもに教えてくださっています。
神の教えに従って生きる、それが信仰の旅です。
大切なことは、神の教えを守ることが神の祝福を受ける条件ではないということです。神の祝福は私どもに恵みとして注がれているのです。神の教えそのものが祝福なのです。謙遜に神さまの教えに従えば、その教えが祝福であることが分かります。私どもは完璧な信仰者になる必要はありません。またなれるものでもありません。大事なことは、神の教えを謙遜に行うことです。その努力をするのです。きっと神の教えが祝福であることが分かるでしょう。
主イエスを信じる者たちが貧しく飢えることがあるでしょう。辛いこと、悲しいことが起きて泣くこともあるでしょう。私どもと共にいてくださる神さまは、私どもを顧みてくださいます。飢えに対しては満腹を、悲しみに対しては喜びと笑いを与えてくださるのです。これは気休めの教えではありません。神は生きて働かれるかたであり、私どもを必ず顧みてくださるのです。神さまが顧みてくださることを体験する、何と幸いなことでしょう。
神はあなたの状況を変えることができます。神はあなたを変えることができます。神はあなたの考え方をみ言葉により変えることができます。すると世界が別な姿を現すのです。
「富んでいるあなたがたは不幸である」。
この場合の富んでいる人とは、神を信じない人です。あるいは富がある故に、共におられる神さまに信頼しない人です。富があれば何でもできると富に信頼を置く人は、神さまに信頼しません。今は幸福を感じたとしても、冨はいつまでもあるとは限りません。冨が失われたとき、うろたえるだけです。
神の国を目指して歩む者は、飢えても苦しくても、神の顧みを信じ、忍耐をして生きることができます。万一飢えて死ぬことがあるかも知れません。それはそれでいいのです。神はその人を神の国に連れて行ってくださいます。主イエスを宣べ伝えたために人々から憎まれ、ののしられても、仮に迫害の死を遂げてもよいのです。神の国での報いは大きいからです。
神の国を目指さない者は、自分が何を目指して生きているのか分かりません。その人は、今が幸いであることを願います。幸いであることを喜んでいたとしても、何かあるとその幸いは崩れ去るのです。荒野を旅して困難が生じると不平を言った人のように、現実には不平や不満が心を占めていることが多いものです。もしかしたら繁栄の絶頂でこの世を去るかも知れません。しかし、
「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか」(9:25)
と主イエスは教えられました。
神の国に迎えられないのなら、その繁栄は無駄になるでしょう。神が与えてくださる目的地を目指す者は、いつも希望を持って歩むことができるのです。従っていつも喜んで生きることができるのです。
7.神に希望をおく
- 信仰に生きるとは、神に希望をおいて生きることです。
- 私どもの創造主、私どもに命を与えてくださり、私どもの生涯にわたって、私どもの歩みを支えてくださる神に希望を置く、それが信仰に生きることです。
- イエス・キリストの十字架の死を通して、私どもの罪を赦し、神の子として愛してくださる神、私どもの父となってくださる神に希望を置く、それが信仰に生きることです。
- 神に希望をおく人々こそ、幸いな人々なのです。
祈り
天の父、私どもは、信仰の旅をしていることを悟らせてください。確かな目的地に向かって歩んでいることを教えてください。あなたが導かれる旅であるが故に、確実に目的地に着くことを悟らせてください。それ故、希望を持って生きることができ、目当てに向かっていることを喜んで生きることを教えてください。
目的地を知らない者は、その日暮らしをするに過ぎません。今日の幸せを願いますが、思い通りにはならず、不平や不満が心を満たします。顔をあげてあなたを仰がせてください。あなたに立ち帰らせてください。そして希望を持って目当てを目指して歩むものとしてください。イエス・キリスト。