聖書 ルカ 6:43〜49 良い木は良い実を結ぶ
→聖書が伝える信仰は、イエス・キリストを救い主と仰ぐ信仰です。
- この信仰の特徴は、神の恵みをいただいて神の祝福をいただいて生きることにあります。
- 「いただいて」生きるのです。
- 神の教えを一所懸命守って、神の祝福をいただくというのではないのです。
- これは自分の努力で生きる信仰です。
- これは聖書の信仰ではありません。
- 神の恵みが、わたしを包み、わたしを生かすことを信じる、これが急所です。
- 信仰者は言うのです。 「私のうちにキリストが生きている」。
- これは私どもに対する神の救いの恵みです。
→あなたが聖書の言葉を大切にし、聖書の言葉を真理として、これに信頼して生きていこうと考えているなら、
- なぜそのように考えることができるのでしょうか。
- それはキリストがあなたのうちに生きているからではないでしょうか。
- 「私のうちにキリストが生きている」。
- 信仰者は、このように告白するようになるのです。
→マタイ福音書5〜7章は、山上の説教と呼ばれる主イエスの教えが並べられています。
- 山上の説教は「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである」という言葉で始まっています。
- それに対して、ルカ福音書の6章の主イエスの教えは、平地の説教と呼ばれます。
- それは、主イエスが山から下り、彼のもとにいる弟子たちや彼のもとに集まってきた民衆に説教をしたからです。
- この平地の説教は、「貧しい人々は、幸いである、/神の国はあなたがたのものである」という言葉で始まっています。
- そして今日の聖書箇所は、この平地の説教の結論の部分です。
→主イエスは平地の説教で何を教えられたのかを振り返ってみたいと思います。
- 平地の説教では、主イエスの弟子の生き方が教えられています。
- ぱっと読む限り、実行はできそうもない教えが並んでいるように見えます。
- そしてその教えになぜ従わなければならないのか、その理由も分かりにくいのです。
- たとえば「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい」。
- この教えになぜ従わなければならないのか、理由がわかりにくいし、従いたいとも思えません。
- なぜ主イエスは、このような教えをなさったのでしょうか。
→主イエスのもとに沢山の人が集まってきました。
- その多くは、主イエスに病気を治してもらうために集まってきたのです。
- そして実際、主イエスは彼らを癒やました。
- 主イエスは奇跡を行い、多くの病人をいやしたのです。
- 主イエスの癒やしが評判になり、さらに多くの病人が主イエスのもとにつれて来られて癒やされます。
→人々は主イエスのことをどのように思うのでしょうか。
→主イエスは、自分が行う奇跡の背後に神がおられることを知っておられました。
- 神のご支配があるということです。
- 主イエスの活動のことが4章の最後にこう書かれています。
- 「イエスは言われた。『ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ』」。
- 「福音」というのは、グッド・ニュース。
- うれしい知らせ、の意味です。
- 主イエスのもとに来た病人は主イエスによって癒やされました。
- 癒やしてもらうためのお金を払うわけではありません。
- 無料で主イエスに癒やしてもらっているのです。
- ただで病気を治してくれる人がいる。しかも奇跡で。これはグッド・ニュースです。だから人が沢山集まってきました。
- 癒やしは神さまの恵みなのです。
→主イエスは、病人を癒やしながら、
- あなたは神の恵みのご支配の中を生きることができる、と伝えているのです。
- 神の国はあなたのものですと伝えているのです。
- 神はあなたと共におられます。
- 神は恵みをもってあなたを導く神、あなたは神の恵みのもとに置かれているのです、と主は神の国の福音を宣べ伝えたのです。
- あなたが癒やされたのは、神がおられ、生きて働かれるからです。
- あなたは神の恵みの支配もとに生きることができるのです、と主イエスは語っているのです。
- あなたは今、神の国に生きることができると語っているのです。
- うれしいことが起きた時に、「神さまのおかげです」と言うことがあります。
- イエス・キリストを信じて生きるとは、「神さまのおかげです」と言って生きることなのです。
- つまり感謝です。
→こういうと反論する方がおられると思います。
- この世界には不幸な人がいるではないか。
- 戦争で女子供が殺されるではないか。
- 神がいるならなぜこんな事が起きるのか。
- 神が恵みをもって支配しているなら、なぜ、飢えで苦しむ人がいるのか。
- 東日本大震災のような大災害が起き、また原発の事故で、多くの人が苦しむことがなぜ起きるのか。
- 津波で教会が流された人たちは、それでも神さまのご支配があると言うのか。
→これに対して私には説得力のある反論はできません。
- しかし、もし神がいないなら、苦しんでいる人は不幸です。
- その不幸から自分を救う神がいないし、自分で自分を救うこともできないのですから。
- 聖書が伝える信仰は、それでもなお神の恵みのご支配を信じる信仰です。
- 実際、大きな苦しみの中で、信仰を得て希望を持って生きている人が沢山いるのです。
→今日の聖書は、平地の説教の結論部分です。
- 二つの譬えをイエスは語られました。譬えはわかりやすいです。
- 良い木が良い実を結ぶ。
- 主イエスはぶどうの木の譬えを話されました。農夫は、実を結びそうにない枝は切って、ぶどうの木の手入れをします。
- 良いぶどうの木にします。そうすれば豊かに実を結ぶからです。
- 悪い木、葉が病気になっているような木は良い実を結ぶことができません。
- 善い人は良いものを入れた心の倉から善いものを出すとあります。
- これは木とその実の関係は、人の心とその行いと同じだと言っています。
- 人の心が善ければ善い行動が生まれ、悪い心からは悪い行動が生まれてくると言うのです。
- 人の口は、心からあふれ出ることを語るのであるとあります。
- 「心にもないことを言う」という表現がありますが、大抵は、心にあることを人は話すのです。
- 「敵を愛し、あなたがたを憎む者には親切にしなさい」。
- 善い心から善い行いが生まれます。
- 「悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい」。
- 善い心から善い言葉が出てくるのです。
→多くの人は何をすべきかを考えますが、どういう人になるかを余り考えません。
- ですからクリスチャンも、聖書から神様の教えを学ぶと、それを実践しようと努力します。
- 努力は大切なのですが、もっと大事なのは「心」です。
- 心が行いとなって現れるからです。
- 心が大事なのです。
- 愛する努力をすることによって愛する人になるのではありません。
- 愛する人だから、人を愛することができるのです。
- 自分が何をするのか、何ができるのかよりも、自分がどんな心を持つ人間なのかに目を留めることができますように。
→主イエスは、「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか」と話されました。
- 「なぜ私の言うことを行わないのか」と問い詰めています。
- 主イエスからすれば、自分の語ることを人が行わないのが不思議なのです。
- 「敵を愛しなさい、憎む者に親切にしなさい」。
- これが主イエスの言葉です。
- 「自分はそんな教えに関心はない、そんな教えを実践する理由が分からない、この教えは難しすぎる」と人は言いそうです。
- このような人に向かってなぜ行わないの、って聞いても答えは明瞭です。
- 「関心がないから、実践する理由が分からないから、むずかしいから」。
- そして主イエスは、主の教えを実践する人がどんな人に似ているか示そうとさらに話されました。
- 実践する人は、「地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。
- 洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった」。
- 逆に実践しない人は、「土台なしで地面に家を建てた人に似ている。
- 川の水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊れ方がひどかった」。
- 主イエスの教えを実践する人と実践しない人とでは、試練と思えることが起きた時に大きな違いが生まれてくるのです。
- しっかりした土台の上に家を建てれば、洪水が来ても大丈夫と言うことです。
- しっかりした土台とは何でしょうか。
- 聖書は、それは神様の恵みだというのです。
- 人間の努力で築き上げたものではなくて、神の恵みだというのです。
→この平地の説教で主イエスは、「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」と教えられました。
- 憐れみ深い心から、敵に対する愛が生まれ、憎む者に対して親切な行いが生まれ、悪口を言う人を祝福する祈りが生まれるのです。
- あなたは言うかも知れません。
- 憐れみ深い人になることなんて関心がありません。
- 憐れみ深い人になる理由が分かりません。
- 難しくてできません。
→しかし主は言うのです。
- 神の恵みが、それを可能にします。
- 「だから、なぜ私の言うことを行わないのか」と言われるのです。
→主イエスは、ご自分の弟子がいかに生きるべきかを教えておられます。
- その時に、大事なのは心です。
- その心もまた神様の恵みです。
- 主イエスはやがて十字架の死を遂げます。
- そして復活します。
- 使徒パウロは、洗礼を受けることは、主イエスと結び合わされることだと教えました。
- 洗礼を受ける恵みがあります。
- それは、新しい人になるという恵みです。
- 「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです」(コリント二5:17)。
- 「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラテヤ2:20)とあるように、信仰者のうちにキリストが生きてくださる恵みです。
- いやあ、そんなこと、全然実感できません、というかたがおられるでしょう。
- しかし恵みによってキリストが私たちのうちに生きてくださっているのです。
- そして私どもには、神の恵みとしてキリストの心が与えられているのです。
- あるいは神の恵みとして神の霊、聖霊が私どものうちに住んでおられるのです。
- 「この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである」(ヨハネ14:17)。
→この神の恵みを信仰によって受け取る時、あなたの心は、キリストの心とされるのです。
- その時、私どもは言うのです。
- 「 生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」。
- その時、私どもは、主の教えなんて関心がありません、実践する理由が分かりません、むずかしいです、などとは言わなくなります。
- キリストの心を持つ人が、主の教えに従わない理由はありません。
- 義務で従うのでもありません。
- キリストの心を与えられているから、そのように生きていきたい、それだけです。
- 神の恵みによって与えられる心です。
- 信仰者にとっては神の恵みがすべてです。
- 神の恵みをいただき、神の恵みのもとで生きればいいのです。
- 新しい心を与えられたと信じて、生きればいいのです。
- 大切なことは、「キリストがわたしのうちに生きている」と喜んで語る心になることです。
- 昔イスラエルの王ダビデが姦淫の罪を犯して罪を悔い改めた時、神に祈りました。
- 「神よ、わたしの内に清い心を創造し/新しく確かな霊を授けてください}(詩篇51)。
- 神は恵みによって与えてくださいます。
- あなたが聖書の言葉を大切にし、聖書の言葉を真理として、これに信頼して生きていこうと考えているなら、なぜそのように考えることができるのでしょうか。
- それはキリストがあなたのうちに生きているからです。
- 信仰者は「私のうちにキリストが生きている」と告白するのです。
- 信仰者は、このように告白するようになるのです。
- 父なる神が憐れみ深いように、自分も憐れみ深い人になりたいと願うようになるのです。
- 神様の恵みによって。
祈り
天の父、あなたの恵みが私どもを生かす、そのことを教えてください。自分の力に頼り、自分の力で努力する人から見れば、神の恵みに頼るというのは、危うい教え、愚かな教えに見えることでしょう。しかし、あなたは恵みの神さまです。憐れみに富み、慈しみに富む神さまです。あなたの恵みに心からの信頼を寄せる者としてください。イエス・キリストの御名により祈ります。