クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

 台風12号が大きな被害を与えた。奈良県の山間部で、山が崩れ住宅を襲う。長時間にわたり、多量の雨が降ると、どこで山崩れが起きても不思議ではないという。山間部に住む人々は気が気でないだろう。災害が起きないことを願う。「人命が失われることがないように、神よお守りください」。


 今朝、マタイ福音書26章69〜75節を読んだ。ペトロが主イエスのことを三度否む話である。「あなたもガリラヤの主イエスと一緒にいた」と声をかけられ、ペトロは「何のことを言っているのか、私は分からない」と答え、さらには、「そんな人は知らない」と二度言うのである。ペトロは捕らえられ、自分が死ぬのではないか、と恐れたのである。


 誰しも自分の命は惜しい。だからサタンは神に、ヨブを命の危険にさらせば、ヨブは神を呪うに違いないと言った。我々は自分が踏み絵を踏むように迫られたら、それを拒むことができるだろうかなどと考えると、拒むのはむずかしい、と思ったりする。いや自分は、必ず踏み絵を踏むだろうと推測する。


 イエスが「今夜あなたがたは皆わたしにつまずく」と言ったとき、ペトロは、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまづきません」と答えた。自信過剰の言葉である。考えてみると、自分は必ずこうできる、できないという言葉は、実は傲慢な言葉なのではないか。ペトロの言葉が高慢な言葉であることは誰しも思う。しかしもし、「わたしはきっと踏み絵を踏むだろう」と言うとき、この言葉も高慢な言葉と言えないだろうか。この言葉もペトロの言葉も、自分の力で生きようとする人の言葉である。自分の力で生きようとしているから、ペトロは、自分はつまづかないと豪語し、信仰の弱さを覚える人は、「わたしはきっと踏み絵を踏む」という。この両者はコインの裏表であり、いずれも自分の力で生きようとする人の言葉であり、真の信仰者の言葉ではない。信仰者は、自分の力で生きようとするのではなく、神に助け、導きを求めつつ生きるのである。だから「試みに遭わせず」という祈りも切なる祈りとなる。
 真の信仰者はこの祈りを常の祈りとすべきである。

「信じます。信仰のない私をお助けください」(マルコ9:24)。