聖書 ルカ 7:11〜17
説教 力強い主の憐れみ
→聖書には奇跡物語が書かれています。
- 現代人はこれを読むと、だから信じられないんだよなと言ったりします。
- 確かにそうだと思います。
- しかし、神を信じるとはどういうことでしょうか。
- 聖書の神は、全能の神、神がなさろうと思えばできないことのない神です。
- しかもこの世界を造り、人間を造られた神です。
→私も、最初聖書を読んだとき、奇跡物語は信じることができませんでした。
- 合理的ではない、あり得ない、と思いました。
- しかし神を信じた時、奇跡を信じるのは当たり前だと思いました。
- 神は人間の思いを超えた存在です。
- 人間の思いを越えることを神がなさることに何の不思議もありません。
- 神を信じたとき、聖書に書かれている奇跡をすべて信じることができました。
- 今日の聖書では、イエス様は死んだ若者を生き返らせるという奇跡を行っています。
→今日の聖書で弟子たちと大勢の群集がイエス様と一緒でした。
- イエス様はすばらしい教えを説き、病人を癒やし、悪霊を追い出す奇跡を行っていました。
- 大勢の人々がイエス様について行ったのです。
- イエス様はナインという町を訪れました。
- イエス様が町の入り口にある門に近づかれると葬儀の行列に出会いました。
→「ある母親の一人息子が死んだ」とあります。
- 続けてその母親はやもめであったとあります。
- 既に夫が死んでいるのです。
- そしてさらに一人息子が死ぬのです。
- 愛する息子、しかも頼りになる息子が死んだのです。
- 悲しみのどん底に突き落とされた女性がそこにいました。
- 息子の遺体を入れた棺を人々が担ぎ、その後にその死を悼む人々の行列ができています。
→イエス様はこの母親を見て「憐れに思い、もう泣かなくともよい」と仰せになりました。
- この「憐れに思う」という言葉の名詞は「はらわた」という意味です。
- 「憐れに思う」、それは、はらわたからの思いなのです。
- 心の深みからわき出てくる思いなのです。
- 日本語で「はらわたが煮えくり返る」というと非常に激しい怒りを表します。
- あるいは「断腸の思い」という言葉があります。
- はらわたがちぎれるほどの悲しく痛ましい思いとの意味です。
- イエス様は、心の底からこの女性の辛く悲しい気持ち、絶望的な気持ちを感じ取られたのです。
- そして、なんとかしてあげたいとの憐れみを覚えられたのです。
- 心に憐れみがあふれて来たのです。
→イエス様は、憐れみの思いに突き動かされたのです。
- 私たちだって、気の毒な人を見ると、憐れみを覚えます。
- でも憐れみの情に動かされて行動するとは限りません。
- イエス様の語られたサマリア人のたとえがあります。
- ある旅人が強盗に襲われ瀕死の状態で道に倒れています。
- そこを3人の人が通るのですが、最初の二人は見過ごします。
- 傷ついた人を見て気の毒だと思いますが、通り過ぎるのです。
- 3人目の人は、憐れみの思いに突き動かされ、傷ついた旅人を介抱します
- イエス様にとって憐れみの思いが身についていると言ってよいと思います。
- ためらうことなく、迷わずに、この母親に近づくのです。
- そこで思います、私どもにはどのような思いが身についているのか、と。
- つい人を批判する、つい怒る、つい不満を感じる。
- 否定的な思いは私どもに取りついているかも知れません。
- どんなよい思いが身についているのか、と思います。
→イエス様は憐れみ深いお方です。
- 聖書が告げる神さまは、憐れみ深い神さまなのです。
- 神さまご自身、「憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ちた神」と述べています。
- 私どもは神さまがいかなる方か知りませんから、神ご自身「私は憐れみ深い」と言われるのなら、それを信じるわけです。
- 信じるだけでなく神を信じる生活をする中で、神の憐れみを経験していきます。
- モーセという人物は、「あなたの神、主は憐れみ深い神であり、あなたを見捨てることも滅ぼすこともしない」と神が憐れみ深い方であると語っています。
- 聖書が告げる神は、憐れみ深い神なのです。
→イエス様は言われます。「もう泣かなくともよい」。
- どういうことでしょう。
- 辛くて悲しくて、希望がなくなって、泣かざるを得ないのです。
- 泣くなと言ったってそれは無理なことです。
- しかし「主は言うのです。「もう泣かなくともよい」。
- イエス様は、この女性を顧みるのです。
- イエス様の憐れみは、どのような悲しみ、苦しみからも人を救い出すことができるのです。
→そこで言うのです。「若者よ、あなたに言う。起きなさい」。
- 死者に向かって起きなさい」と言うなんて、驚きです。
- 旧約聖書にも死んだ人が生き返るという話が書かれています。
- 預言者のエリヤが、神さまに祈って死者を生き返らせてもらっています。
- しかしイエス様は、「起きなさい」と命じるのです。
→このような命令をすることができる人ってどんな人でしょう。
- このような言葉を口に出すなんて、人の心に思い浮かびもしません。
- このような言葉は、神さましか口に出すことはできません。
- 神様は世界を造るとき、「光あれ」と命じられたのです。
- 聖書が告げる神は、全世界を造り、人間を造られた方です。
- 人間に命を与え、命を取られるのは神です。
- この言葉はイエス様が神様に遣わされた方であることを意味します。
- 神さまから遣わされた方として、イエス様の語る言葉には力があるのです。
→人間にとって死とはどうにもできない現実です。
- このやもめであり、母である女性にとって一人息子の死は、受け入れるしかないのです。
- 悲しみ、辛さ、絶望を受け入れるしかないのです。
- そのどうにもできない現実から人を救い出すことができるのがイエス様です。
- 私どもは、様々な現実の中で苦しみます。
- どうにもならないと言って絶望することもあります。
- 現代の日本では、自殺する人が多いです。
- どうにもならない現実から解放されたいのです。
- それができないので、命を絶つのです。
→しかしイエス様は、私どもをそのような現実から救い出してくださるお方です。
- 「若者よ、あなたに言う。起きなさい」。
- すると死人は起き上がってものを言い始めたのです。
- そしてイエス様は、息子をその母親に返したとあります。
- 母親は、驚きと共にとてつもなく大きなよろこびに包まれたことでしょう。
- 私ども人間に対する神の憐れみは、力強いのです。
- 神の憐れみは、単なる同情ではありません。
- 神の憐れみは、人を救う力ある憐れみなのです。
- その神の憐れみが私ども一人一人に注がれているのです。
→私どもに神の憐れみを受ける資格があるかどうか、気になる人がいるかも知れません。
- イエス様は、やもめの母親を見て、憐れみを感じられました。
- 私どもの行き詰まった現実に神は憐れみを抱き、救ってくださるのです。
- 神の憐れみは一方的に人間に注がれるのです。
- あなたにも注がれるのです。
→この経緯を見ていた人々は恐れを抱いたとあります。
- 神の現実に触れるとき、人は恐れに捕らわれるのです。
- 神が今ここにおられると感じるとき、人は恐れに包まれるのです。
- 預言者のイザヤは、神の現実に触れたとき、自分は滅びるばかりだと言いました。
- この場面では、人々の恐れは、神に対する賛美となりました。
- そして「大預言者が我々の間に現れた」「神はその民を心にかけてくださった」と言いました。
- この「神はその民を心にかけてくださった」という言葉は、神は民のところに訪れてくださったと訳すことができる言葉です。
→ルカ福音書の一章にこのような言葉があります。
「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し、
我らのために救いの角を、/僕ダビデの家から起こされた。
昔から聖なる預言者たちの口を通して/語られたとおりに。
→13節で「主はこの母親を見て」とあります。
「だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。
あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」。
→この福音書を書いたルカは、この死者の生き返りの物語を書くとき、
- イエス様の死からの復活を考えているのです。
- つまり死者を生き返らせる神の力、
- 死者を復活させる神の力を伝えようとしているのです。
- やもめは、息子の死という絶望に追いやられましたが、
- イエスは彼女を救いました。
- イエスは死に打ち勝つことのできるお方なのです。
- そして私どもに死を越える希望、復活の希望のあることを示される方なのです。
- イエス様は、私どもを救う神の訪れなのです。
- 神は憐れみをもって力をもって私どもを顧みてくださる神なのです。
- 祈ります。
祈り
天の父、あなたは憐れみ深い方です。悲しみ、辛いこと、苦しいことで私どもが行き詰まりを感じるとき、あなたの憐れみが注がれていることを教えてください。あなたの救いのあることを教えてください。
天の父、あなたの憐れみは、すべての人に注がれています。素直にあなたの憐れみを求め、あなたによる救いを受けることができますように、導いてください。
天の父、あなたの憐れみを賛美する者としてください。IX.