クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。

 朝ヘブル書の11章8節を読んだ。アブラハムは神の呼びかけに応えて旅をした。土地を与えるという神の約束を信じて、行き先も知らずに出発した。聖書の神は、人を召す方であり、その招きに応じて生きること、これが信仰生活であることを知る。


 アブラハムは約束の地に着いたが、その土地が子孫のものとなり、そこに子孫が住むようになるのははるか後のことである。アブラハムは、自分が生きているときには成就しない神の約束を信じて生きるように召し出され、その召しに応じて生きた信仰者であった。


 我々もまた、神の国を継ぐという約束を信じて生きるように召し出され、その召しに応えて生きるものである。神の国を継ぐという約束は生きている間に実現しない約束である。そして我々は、この約束を信じ、時間の中を信仰の旅をするのである。神の国を目指す旅をする。この旅に生きるのである。


 思いめぐらす中で、教えられたこと。それはアイデンティティーということ。つまり、我々はアブラハムと同じように召しを受け、召しに応じる存在であること。神の国を継ぐという約束を与えられ、この約束の成就を目指して生きるものである事、この約束は我々が生きている間には実現しない約束であること、それ故、神はおられ、約束を必ず実現してくださると信じ、一切を神にゆだねて歩むということ。アブラハムに倣い、このような歩みをする信仰者、それが聖書が告げる信仰者であると信じ、このような信仰者を目指したい。


 このアイデンティティーに立つこと。そのことを思ったときに、思い出された言葉がある。

「我ここに立つ。他になしあたわず。神よ、救い給え」

と述べたと伝えられるルターと同じように、信仰の歩みをしたいと思わされた。


午後は、訪問聖餐。長老と共に高齢のために礼拝に来ることができなくなったお年寄りを訪問し、短い説教をして聖餐式を行った。帰る頃はすっかり暗くなった。色々な年の取り方を見る。自分の願うとおりに年を取るとは限らない。それでも信仰に支えられて生きていく。