クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

聖書 ローマ 15:1〜6
説教 共に生きる

→先月11月27日礼拝後、教会総会を開催しました。

  • 教会では大事な物事を決める時、総会を開きます。
  • 教会員全員出席して話し合い、最後に結論を出します。
  • その日は、礼拝堂の暖房について協議しました。
  • 長老会から、電気式の床暖房を提案しました。
  • 色々な意見が出されました。
  • 最終的に工事をする決議をしました。
  • 教会の会議は、神の御心が実現されることを目指します。
  • 決議し、実行していく時、神様のみ心がなされたと信じるのです。
  • 決議が終わったあと、自分の意見が通ってよかったとか、
  • 自分の意見が通らなかったとか、
  • そういうことで一喜一憂せず、
  • 意見を戦わせることを通して、神の御心を確認できたと皆で喜ぶのです。
  • そのようにして、教会では、同じ思いを抱くことを心がけています。

→今日の聖書にこう書かれています。

  • 「わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり」。
  • 教会は、神様から、愛することを命じられています。
  • 神の教えを要約すると、神を愛すること、自分のように隣人を愛することであるとイエス様は教えられました。
  • ここでは、強い者が、強くない者の弱さを担うことは愛することなのです。
  • 相手を愛するから、相手の弱さを担うというのです。

→ローマの信徒への手紙14章に、教会の中に生じた一つの問題が書かれています。

  • それは食物に関するものです。肉を食べていいかどうかという問題です。
  • 肉は市場で売買される前、神殿に献げられたというのです。
  • 日本では、お椀にご飯をよそって仏壇に供え、それから食事をする習慣があります。
  • それと似ていると思います。
  • クリスチャンは偶像礼拝をしてはいけないと教えられています。
  • 他の神々を拝んではならないということです。
  • 偶像に献げられた肉を食べてもよいのだろうかという問が起きたのです。
  • 14章は、「信仰の弱い人を受け入れなさい」という命令で始まっています。
  • 信仰の強い人がいます。
  • その人は、偶像なんか存在しないのだから、食べても大丈夫と主張します。
  • 偶像というのは、人間が勝手に作り上げたもので、
  • いくら偶像に献げられたからといっても気にしなくていい。
  • 信仰の弱い人は、いやそれでも偶像に献げられた肉だし、
  • 偶像礼拝をしてはいけないと教えられているから、食べてはいけないのではと考えます。
  • どちらが正しいのかという議論を始めると
  • やがてそこに不和が生じます。

→信仰の強い人、この人たちは信仰的に物事を考えることができる人です。

  • 信仰の弱い人のことを、批判します。
  • 「だめだなあ、信仰のことが分かっていないんだ」
  • 信仰の弱い人、この人たちは不安を覚えるのです。こうしていいのかどうか、確信がないために。
  • そして信仰の強い人のことを裁くのです。間違ったことをしている、行きすぎている!
  • 教会も人間の集まりですから、しばしば批判や裁きが横行すると言うことがあります。
  • それは教会としてはいい状態ではありません。
  • 批判をしたり、裁く、これは愛することにはなりません。

→そこで14章では、「信仰の弱い人を受け入れなさい」と命じられています。

  • 15章では、私たち強い者は、強くない者の弱さを担いなさいと命じられます。
  • 受け入れるといい、担うといい、どうすることなのでしょうか。
  • 受け入れるというのは、相手の考えを認めるということです。
  • 相手が、このように考えているということを認めることです。
  • それに批判を加えないことです。
  • この人はクリスチャンは仏式の葬儀に出てはいけないと考えていると認めるのです。
  • この人はクリスチャンは仏式の葬儀に出てもかまわないと考えていると認めるのです。
  • それに善し悪しを言わないのです。
  • 「あなたは、こう考えているんですね」「私はこう考えています」と
  • 意見の相違を認め合うのです。
  • それはお互いの人格を認め合うということです。

→その上でどうするかです。

  • 信仰の強い人が歩み寄るのです。
  • 偶像に献げられた肉を食べないのです。
  • それは自分の考えを変えることを意味していません。
  • 自分の考えは持ったまま、つまり食べてもかまわないと知りつつ、
  • 相手に合わせるのです。
  • これが受け入れるということです。
  • すると批判も裁きも起きません。
  • 大事なのはどちらが正しいか、ではないのです。
  • 共にいる、共に生きることを喜ぶことが大切なのです。
  • 共に信仰生活を続けることが大切なのです。
  • 批判や裁きが生じ、信仰生活から喜びが失われたら、
  • 何のための信仰生活を送っているのか分からなくなります。
  • 人を愛し、人を受け入れるのです。

→私たちは受け入れる努力をします。

  • 自分の考えを言って相手の間違いを正そうとはしません。
  • それは相手が納得してこちらの考えを受け入れることができるようになるのを待つのです。
  • 偶像に献げられた肉を食べても大丈夫だと相手が納得するのを待つのです。
  • だから、忍耐が必要です。
  • 人は自分が間違っている、正しいのはこれだ、と言われても納得するとは限りません。
  • 相手の言うことが正しいと分かっていても、すぐには受け入れません。
  • 自分が間違っていると言われただけで、心が傷ついて、正しいことも受け入れません。
  • 相手が正しい理解に立つのを忍耐をもって待つのです。
  • 何でそんな忍耐をしなければならないの、と言う人がいるでしょう。
  • 人間関係というのは、一緒にいることがうれしいのという関係が一番よいのです。
  • 強い者が、相手を従わせている状態は、最善ではないのです。
  • 相手が不満を持っているわけですから。

→15章の1節は、「信仰の強い者は強くない者の弱さを担うべきであり」とあります。

  • これは「信仰の弱いものを受け入れなさい」の教えより、
  • 更に広く、深い教えになっています。
  • 強い、弱いは、信仰に限らない広さを持ちます。
  • 社会的な立場の弱い人がおり、強い人がおり、
  • 経済的に強い人、つまり富んだ人もいれば、弱い人、貧しい人もいます。
  • さらに受け入れるだけでなく、担うとあります。
  • 担うということは相手の弱さを自分のもとのするとの意味があります。
  • 「あなたは弱いのね」と相手の立場を理解するだけではなく、
  • 相手の弱さを引き受ける積極的な面が表現されています。

→相手の弱さをかばうようにしなさいとの意味です。

  • 相手を助けて、弱さをカバーすると言うことです。
  • 自分のことだけを考えて生きることから比べると、
  • 弱い人に尽くすという面が強く出てきます。

→「自分の満足を求めるべきではありません」。

  • 一頃、自己責任という言葉がよく使われました。
  • 人は自分の生活に責任を持つべきだというのです。
  • そして他者の生活に関わる必要はないというのです。
  • 「自分の満足を求める」は、自分だけよければ良いという考えです。
  • このような自己責任という言葉の使い方は、結局、弱肉強食の論理につながります。
  • 聖書は、二つのことを教えています。
  • 互いに重荷を負い会いなさい(ガラテヤ6:2)。
  • めいめいが、自分の重荷を担うべきです(ガラテヤ6:5)。
  • 共に重荷を負うことが教えられるわけです。
  • 自分の満足を求めない理由としてキリストが引用されます。

→その理由としてキリストもご自分の満足は求めなかったと書かれています。

  • 「あなたをそしる人のそしりが、わたしに降りかかった」と書いてある通りです。
  • キリストの行為について説明があります。
  • キリストは神の御心を行うために、この世に来られました。
  • 人々を救うために世に来られたのです。
  • そして、人々から非難されても、ののしられてもそれを受け入れたというのです。
  • 多くの人にとって屈辱は耐えがたいものですが、
  • キリストは受け入れたのです。
  • キリストが自分の満足を求めないで、神の御心を行うことを第一に生きていたからです。
  • キリストは十字架の死を受け入れれたのです。

→「おのおの善を行って隣人を喜ばせ」。

  • 「喜ばせ」あとありますが、相手に気に入ってもらおうとすることではありません。
  • 他の聖書では、隣人の益となるようにすると訳されています。
  • 弱い人たちの益となることを具体的に行うというのです。

→「互いの向上に努めるべきです」とあります。

  • 日本語では長い訳になっていますが、ギリシャ語では、「建築しなさい」です。
  • 何を建築するのという疑問が生じます。
  • ある聖書の訳では、「その人の徳を高め」とあります。
  • 信仰の弱い人の成長を目指しなさいと言うことです。
  • 敢えて建築というギリシャ語が用いられているのは、
  • 個人の信仰の成長というより、教会を建設することが意味されていると考えてよいと思います。
  • 互いに批判したり裁き合うような教会ではなく、一つ思いとなる教会の建設です。
  • 互いに重荷を負い合い、立場の違いを超えて、強さ弱さの違いを超えて、一つとなって生きる教会を目指しなさいと言うのです。

→自分が受け入れられ、自分の重荷を負ってくれる人の存在に気づくとき、

  • 私どもは、よろこびに満たされると同時に、自分もまた愛する人に変えられたいとの願いが与えられます。

→私どもがこのような教会を築いていくとき、

  • 教会は世の光となります。
  • 私どもの築く家庭が世の光となります。
  • この世では、自分の考えを正しいとし、それを主張し、
  • 相手を説得しようとして、争っているからです。
  • 共にあり、共に生きていく喜びが教会から、
  • 信仰者の家庭から、この世に向けて流れていきます。
  • キリストに倣って思いを一つにして、互いに受け入れ合い
  • 共に重荷を負う教会として成長していく時、
  • 神様をたたえる歌が教会に響き渡ります。
  • そのことをパウロは祈っています。
  • 私どもも祈りたいと思います。


祈り

  • 天の父、私どもの生きている世界では、人々がそれぞれ自分が正しいと主張し、相手を説得し、自分の主張が通るとき、物事がうまく行くと考えています。国家同士の関係においても、そして身近な家庭においても。
  • そのために思いを一つにするところからくる平和がありません。
  • 天の父、新しい年、教会が世の光となって、同じ思いで生きる幸いを宣べ伝えることができるように導いてください。
  • イエス・キリストの御名により祈ります。