クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

 “エンディングノート”という題の映画を見に行った。誘ってくれる人がいて、一緒に見に行った。物語はサラリーマン生活を定年退職し、第二の人生を歩み出したものの定期健康診断で胃がんと診断された。しかも、一番進行した状態。主人公は、自分の死を準備する。これはドキュメントであり、現実の話である。主人公の砂田さんの次女が映画監督志望なので、父の死に至る過程を映像にしたのである。


 砂田さんは、きちんと段取りをして物事を処理していく性質なので、自分の葬儀をどうするかを考える。キリスト教式で行うことに決めた。信仰上の理由からではなく、三つの理由でキリスト教式を選んでいる。一つの理由は、葬儀費用がリーズナブルだからとのことであった。映画の冒頭は、神父の前で葬式を依頼する場面である。次女がカトリックの信者であるらしい。


 映画は病院での医師とのやりとり、息子家族や孫たちと砂田さんが遊ぶ場面、家族で伊勢に行った旅行の場面、臨終近くなって、息子に自分が死んだ場合の連絡先の打合せなど、死に至るまでの折々の場面を描く。そして臨終、葬儀、火葬場に行く場面が描かれて終わる。


 この映画を見ての感想が人それぞれだと思う。私の同伴者は、家族の死に至る過程をビデオで撮影するその態度をほめていた。僕は、主人公と自分を重ね合わせるようにして映画を見た。砂田さんは69才で亡くなった。僕とは近い年齢である。


 人の最期を看取るということは、核家族化の現代、なかなか経験できないことである。親の葬儀の時、親の死を自分の死に重ね合わせることはないだろう。だから、映画を通して、人の最期を看取る経験をすることになる。年配の人も観客の中にいたが、自分の死をシミュレーションしていたのではないかと思う。自分もガンになったら、あのような過程を通って死んでいくのだと思える。そして死んでいくのは自分だけではない、と死を受け入れる気持ちにもなる。砂田さんは、家族を愛し、家族に囲まれる中で死んでいくわけで、幸せに死を迎えたように思える。自分もあのように死んでいきたいと思わせる映画だった。


 ガンで亡くなる人の過程を映像で見るのは新鮮な経験だった。主人公の顔が元気なときの状態から病魔に冒されやせ衰えていくのが映像ではっきり分かる。アップルのスティーブ・ジョブズ氏のプレゼンテーションする表情も、最後はやせ衰えていた。映像は容赦なく見せる。


 昨年は、作家の吉村昭氏の死に至る過程を妻の津村節子氏が『紅梅』という小説に書いていた。吉村昭氏は、ガンに冒された弟に死に至る過程、弟にガン告知をしないまま、弟の死を看取る過程を小説の形で描いている。『冷い夏、熱い夏』。療法とも興味深く読んだ。僕はこの種の本を読むことは嫌いではない。


 小説では、病気の進行する様子が言葉で綴られるが、映像には迫力がある。小説は、映画よりも沢山の場面での言葉のやりとりを描くので、人々の気持ちが伝わってくるが、映画の場合は、場面が限られ、言葉のやりとりも少ない。でも亡くなる直前の夫婦の会話には涙を誘われた。


 砂田さんは、結婚式の準備をするかのように葬儀の段取りを考えていく。死は、自分の生涯に起きる一つのイベントに過ぎないかのようである。死んだらどうなるのか、といった問を考えていることを思わせる場面は一つもない。死を恐れているようにも思えない。カトリック教会での葬儀を希望したのも、信仰上の理由ではなく便宜的なものとして描かれている。人間にはいろんな人がいるから、命ある者は必ず死ぬ、そして自分も死ぬと割り切って生きる人もいれば、死の恐れからの救いを求める人もいる。この映画は、この種の問題とは無縁である。


 いかに段取りをして死んでいくかを砂田さんはテーマとしている。その段取りをパソコンにメモしたのがエンディングノートであり、そこに記された計画に従って死ぬときまでを過ごす。たとえば家族旅行をする。また死後のことについても言い残している。一家の主であるから、自分の財産を明らかにし、自分の亡き後の財産の処置の仕方を明確にしておくことは大切なことである。これが具体的に述べられていて参考になる。『その死に方は迷惑です』といったようなタイトルの本があったが、最後のことをきちんとしておくことは、大切だし、必要であることは改めて確認した。で、僕は、エンディングノートなるものを購入した。


 映画のパンフレットを買ったが、その中で、砂田さんが自分の人生を数行にまとめている。自分なりに自分の人生を総括しているのである。自分だったらどう表現するのか。


 この映画が始まる直前、僕は iPod Touchで聖書を読んだ。

信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。命を得るために、あなたは神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです。

 パウロも自分がまもなく死ぬことを予期していて、言葉を遺している。その言葉を味わいたいと思った。