クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

ヘブライ人への手紙を朝読んだ。11章13節から16節まで。アブラハムは、天の故郷を熱望し、地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表していたとある。彼にとって、地上の生活は仮住まいであり、天の故郷こそ、本来の住まいであるとの思いがあったのである。仮住まいとはいえ、地上の生活をいい加減に生きてよいということではない。地上の生活は旅なのである。目的地が天の故郷なのである。


 地上の生活が仮住まいの生活というのは、我々にも当てはまることである。我々もまた神の国を目指して旅するものである。僕はそう思って生きている。信仰に生きるとは、天の故郷、神の国を目指して旅をすることである。このように考えるとき、イスラエル出エジプトの出来事は一つのモデルである。モデルと言うより、信仰に生きることの原型と言える。


 イスラエルの民はエジプト王の奴隷であった。神により奴隷状態から解放され、自由の地、乳と蜜の流れる土地に向かって旅をする。旅の途上では困難が待ち構えているが、神の助けを得て自由の地、約束の地を目指して旅をする。彼らにとっては約束の地に向かう道をたどること、それが旅である。


 この旅の本質は、神と共に歩むことである。神に信頼して歩むことである。困難に直面したときに、神に助けを求めて進むのである。神は必ず約束の地に連れて行ってくれると信じて、どのような困難があろうとも、神に信頼して神と共に旅をするのである。イスラエルの民は自由の地に向かって旅をする。この旅はいわば空間の旅である。

 我々は神の国を目指して旅をするが、それは時間を旅するのである。イスラエルの民は文字通りの「道」をたどって旅をするが、我々にはそのような「道」はない。我々も時間の中を神と共に生きる。神に信頼して生きる。我々は何をして時間の中を旅するのか。ある人は福音伝道の使命に生きる。ある人は、世の光・地の塩として世に向けて証しの生活をする。ある人は教会の働きに仕える。ある人は聖書の教えに従って子供を育て・あるいは夫婦互いに愛し合い、主に仕える家庭を築く。人の生き方は様々であるが神と共に歩み、神に信頼して生きる。それが我々の旅である。生きるとは、神から与えられた賜物を生かし、神から与えられた使命に生きること。我々を信仰に導いてくださり、信仰に生きるように召してくださった召しに応えて生きること。それが我々の旅である。我々の人生と神の国はつながっているのである。我々にとって死とは、人生の終わりではなく、旅の完成であり、神の国に迎えられることである。


 僕は牧師である。主の宣教命令に生きることを使命としている。大きな課題は伝道の不振を打開することである。僕は神の言葉に立って考え、神の言葉に従って歩み、神の言葉の素晴らしさを証しできる信仰者を育成することによって伝道不振が打開されると信じている。キリスト信仰が本物かどうか、人々は見ている。キリスト信仰が本当に人を生かすか、人々は見ている。伝道が不振なのは、信仰者を見ても、自分たちとたいして違わないと人々が感じているからではないか、信仰者の生き方が人々を引きつける力を持っていないのである。うっかりすると信仰者は偽善者とみられることがなくはない。愛することを教えられながら自分中心の生活をしているなら、偽善者とみられても仕方がない。だから、聖書、つまり神の言葉に生きる信仰者を育成すること、それは必然的に愛の共同体としての教会の形成につながる。それはイエス・キリストに従う信仰者の群れを築くことになる。


 僕はあるとき、友人の牧師に誘われてある集会に行った。そこで聖書をいかに読むのかを教えられた。僕が使う言葉で言えばディボーションである。ディボーションとは献身という意味であるが、聖書を読み、そこに神の語りかけ、神の導きを聞き、それに聞き従って生活をするのである。聖書の言葉によって具体的に導かれる生活が生まれる。すると「神の言葉は生きており、力を発揮し」というヘブライ人への手紙の言葉が体験されるのである。聖書の言葉に生かされるのである。教会員を聖書の言葉に生かされるように導くこと、訓練することを弟子訓練と呼ぶ。この弟子訓練を僕は行っている。


 ここに一つの誘惑がある。伝道不振の打開を目指して、そして主の宣教命令に基づいて牧師としての働きをするのであるが、肉の思いが湧いてくるのである。成果を上げたい、大きな誘惑である。牧師として成功したい、牧師として自己実現したい、そんな思いに誘われるのである。そのためにうっかりすると弟子訓練が律法主義に陥ることがある。弟子訓練というのは、信仰者を自由にし、人を愛する者に育てることであり、それは神のみ業に他ならないのであるが、自分の力でこれを行おうとすると、律法主義に陥るのである。この誘惑をはねのける道はただ一つ、大切なことは成果を上げることではなく、神に忠実に務めを果たすということである。このことを悟るのに少し時間がかかった。


 そしていま直面しているもう一つの肉の思いは、僕がこうして弟子訓練をしているが、僕はどこまでできるのかとの思い煩いがある。あと何年牧師としての働きができるのか分からないが、時間に限りがある。だから焦っても仕方がないので焦ることはないが、自分の働きが途中の段階で終わることを覚悟しなければならない。そして後任の牧師が受け継いでくれるとは限らない。そのことを思うとき、何とも言えないもどかしさというか、空しさというか、寂しさみたいなものを感じるのである。


 そんな僕が朝、ヘブライ人への手紙を読んだ。そして光が射したごとく、気持ちに踏ん切りがついた。旅をするということは、常に途上にあるということである。常に道半ばであるということである。自分がどこまでできるかは気にせず、今できることを精一杯すれば良い、それでいいのだと教えられた。終末がいつ来るのか分からない。終末が来る前に死ぬということは、地上での信仰の旅は途上で終わるということである。自分がどこまでできたのか、どれほどのことをなしえたのかは、気にしないで良いのである。今、御言葉に立って歩み、み言葉に生かされる信仰者を育て、彼らと共に神の国に向かう旅を歩めるならば、それを喜びとすれば良いのである。一人でも多く、み言葉に生かされる幸いを伝えたいし、味わってもらいたい、その思いをもって日々の務めに励みたい、これが今日のデボーションの結論。