聖書 ルカ 9:28〜36
説教 人の心を求める神
2012/1/22
→今日の聖書は不思議な出来事を語っています。
- 主イエスの顔が変わる、着ている服が真っ白になる。
- モーセやエリヤが栄光に包まれて現れ、イエス様と話をしている。
- モーセとエリヤ、この二人は旧約聖書に出てくる偉大な信仰者です。
- まことに不思議な出来事です。
- これは神さまがイエス様の祈りに答えて引き起こされた出来事だと思います。
→28節。「この話をしてから八日ほどたったとき」と最初に書かれています。
- 「この話」とは、イエス様が多くの苦しみを受け、人々から排斥されて殺され、
- 三日目に復活すると話された後、
- 私について来たい者は、自分を捨て、
- 自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい、と話されたことを指します。
- このイエス様の話に弟子たちは驚き、戸惑い、不安、恐れにとらわれたのです。
- イエス様を信じて生きるってどういうことなのか、と考えさせる出来事です。
→イエス様がこの話をする直前、イエス様は、弟子たちに尋ねました。
- 「私を誰と思うか」。
- 弟子のペトロは答えます。「神からのメシア」。
- メシアとは救い主の意味です。
- ペトロは、病気を癒やし、悪霊を追い出し、人々にすばらしい教えをする
- 力ある救い主の姿を思い描いていました。
- イエス様は、メシアが苦しみを受けて死んでしまうことを、
- つまりメシアの真の姿を知って欲しかったのです。
- そしてイエス様が、自分がどういう存在であるかを知って欲しかったのは、
- 信仰がイエス様との交わりに生きることであるからです。
→イエス様が殺されるという話を聞いて、弟子たちは、混乱に陥ってしまいました。
- そこでイエス様は、弟子たちが少しでも救い主について理解して欲しくて、
- 神に導きを求めるために、山で祈ろうとされたのです。
→28節。「この話をしてから八日ほどたった時、
→29節。「祈っておられるうちに、主イエスの顔の様子が変わり、
- 服は真っ白に輝いた」。
- 不思議な出来事が起きました。
- これは神が主イエスの祈りに答えられた結果といってよいと思います。
- 神の導く出来事が始まります。
- 30節「二人の人がイエス様と語り合っていた。
- モーセとエリヤである。二人は栄光に包まれて現れ」。
→栄光に包まれて現れたモーセとエリヤ、
- この二人は、イエス様の最後について話していたと書かれています。
- モーセとエリヤが現れた意味は何なのでしょうか。
- モーセは、エジプトで奴隷状態で苦しんでいたイスラエルの民を、
- 自由に生きることのできる土地へ導いた指導者です。
- さらに神の民となったイスラエルに対して、神の戒めを民に教えた偉大な指導者です。
- モーセに導かれたイスラエルの民は、神の民となり、
- 神の教えに従って生きることを選びました。
- そしてカナンの地、今のパレスチナの地域で、イスラエルの民は生きるのです。
- その歴史が旧約聖書に書かれています。
→約束の地に入り、そこで生活を始めたイスラエルの民は、二つのことをします。
- 一つは、他の神々を礼拝し、神の目に悪を行ったことです。
- 今ひとつは、悔い改めたことです。
- 神の目に悪とされる偶像礼拝を始めた民に神が懲らしめを与えたからです。
- 具体的には、イスラエルの民は外国人の進入に苦しみます。
- 民は罪を告白して言います。
- 「わたしたちはあなたに罪を犯しました。
- わたしたちの神を捨て、バアルに仕えました」(士師記10:10)。
- そして神はイスラエルの民を外国人の支配から救い出します。
→やがてイスラエルは外国人の侵略に備え、王を立て軍隊を整備します。
- 預言者エリヤの時代に何が起きたのかというと、
- 王が外国から妻を迎え、外国の神を礼拝するようになったのです。
- そこでエリヤは命を賭けて、まことの神を礼拝するように王に警告しました。
- エリヤは命を狙われることとなりますが、
- イスラエルの民がまことの神を信じるように信仰の戦いをした人です。
- エリヤもまた偉大な人物とイスラエルでは信じられた人です。
→ですから、モーセとエリヤが主イエスと話し合っていたということは、
- まことの神を信じる信仰に関係していたことは明らかです。
- 具体的には、エルサレムにおける、イエス様の最後のことです。
- つまり、イエス様の死はイスラエルの信仰に関わることだというのです。
- イエス様の死も、イスラエルをまことの信仰に立ち帰らせるものだと言うことです。
- モーセとエリヤが現れることによって、弟子たちは、
- イエス様の死に意味があることを知ることができるはずなのです。
- でもそのことはまだ弟子たちの理解を超えたことです。
→続いて神は、32節、栄光に輝く主イエスの姿を弟子たちにお見せになりました。
- 彼らは栄光に輝く主イエスの姿を見たのです。
- 神が弟子たちに、栄光に輝くイエスの姿をお見せになったのです。
- イエスは、本当にメシア、救い主であることを神は示されたのです。
- 神は、モーセとエリヤを登場させ、イエス様は死ぬこと、
- その死は、イスラエルをまことの神に立ち帰られるものであることを示され、
- さらに栄光に輝く主イエスの姿を弟子たちに見せ、
- 苦しみ殺されるイエス様こそ、まことの救い主、メシアであることを
- お伝えになったのです。
→そればかりではありません。
- 神自ら弟子たちに語られるのです。
- モーセとエリヤが主イエスの側を離れようとする時、
- 33節、ペトロは、三人のそれぞれのために「仮小屋を三つ建てましょう」と言います。
- 彼は自分が何を言っているのか分かりませんでした。
- モーセとエリヤがもっとここにいて欲しい、との願いから出た言葉です。
- そしてその時、雲が現れました。
- 雲は神がそこにおられることを示すしるしです。
- その雲はモーセとエリヤを覆います。
- そして彼らは見えなくなります。
→そして神が語られるのです。
- 「これは私の子、選ばれた者、これに聞け」。
- 「これは私の子」という言葉は旧約聖書、詩篇第二篇にある言葉でです。
- メシアのことを指すと言われているものです。
- 「選ばれた者」は旧約聖書のイザヤ書42章1節にある言葉です。
- これもまたメシアを指すとされる言葉です。
- 神は聖書の言葉を告げて、イエス様がメシアであることを告げたのです。
- 栄光に輝く主イエスの姿、主イエスと語るモーセとエリヤだけでなく、
- 神ご自身が、イエスこそメシアであると語られたのです。
→でもなぜ、メシアが排斥され、殺されなければならないのでしょうか。
- メシアが排斥され殺される、これは、今に始まったことではないのです。
- なぜなら、イスラエルの民は昔から、神を見捨ててきたのです。
- 繰り返します。イスラエルの民は昔から、神を見捨ててきたのです。
- イスラエルの歴史、それは神を見捨てるイスラエルの民の歴史でした。
- そしてイスラエルの歴史、それは自分を見捨てる民を神がなお愛し、
- 彼らが信仰に立ち帰るように必死に民に働きかける神の歴史なのです。
- イスラエルの民が神を見捨てるのは目新しいことではなく、
- 救い主である主イエスを見捨てることも不思議なことではないのです。
→イスラエルの歴史は、神を見捨てる歴史だというと驚かれるかも知れません。
- 旧約聖書のイザヤ書の最初にこうあります。
- 「天よ聞け、地よ耳を傾けよ、主が語られる。
- わたしは子らを育てて大きくした。しかし、彼らはわたしに背いた。
- 牛は飼い主を知り/ろばは主人の飼い葉桶を知っている。
- しかし、イスラエルは知らず/わたしの民は見分けない。
- 災いだ、罪を犯す国、咎の重い民
- 悪を行う者の子孫、堕落した子らは。
- 彼らは主を捨て、イスラエルの聖なる方を侮り、背を向けた」。
- 牛やロバでさせ、自分の主人を知るというのです。
- しかし人間は誰が主であるかを見分けることができず、
- 神を見捨てるというのです。
- 神ご自身の言葉を紹介しています。神は言います。
- 「まことにわが民は二つの悪を行った。
- 生ける水の源である私を捨てて、無用の水溜を掘った。
- 水をためることのできない、壊れた水溜を」。
- 尽きることなく水を与えてくれる泉である神を捨てて、
- 水溜を掘ったのですが、それは壊れていて、水をためることができないのです。
- 神を捨てて役に立たない水溜を掘った愚かさを神は指摘しています。
→イスラエルの民は神の民と呼ばれますが、彼らは神を見捨てる民でした。
- 困ることが起きると神に助けを求めるのですが、
- 生活がうまくいきようになると神を見捨て、他の神々を求めるのです。
- 他の神々が自分たちを幸せにしてくれると考えるのです。
- そのような民を神が懲らしめると、民は、神に助けを求めるのです。
- そしてまた神を見捨てるのです。
- 困った時には、神に助けを求めます。
- しかしそうでない時、神を必要としないのです。
- いや、神の教えに従いなさいと自分たちに要求する神を見捨てるのです。
- 神が自分たちに要求するのを好まないのです。
→このイスラエルの民の姿は考えさせられます。
- 困った時には神に助けを求める。
- それ以外の時、神から何か指示されるのを好まないのです。
→神の民であるイスラエルは、神を見捨て続けたのです。
- そしてメシア救い主が現れた時も、そのメシアを排斥し殺すのです。
- 神を見捨てる罪、神を神と認めぬ罪。
- 人間とは何か。
- 神よ、私のことは放っておいて。
- 困っている時だけ助けに来て。
- 私に何にも要求しないで。
- この神を信じる人間の姿において、罪がはっきりと現れてきます。
→イエス様のもとには、病気で苦しみ、困っている人が沢山来ました。
- イエス様は、彼らを病気という困窮から救われました。
- 人間の本当の困窮は、病気でもなく、貧しさでもありません。
- 神を見捨てる罪、神を神と認めない罪です。
- 自分を造り、自分を救う神を見捨てるのです。
- 自分を救い導く神を認めないのです。
- 私は、自由に生きたいのだと主張し、神の教えに聞き従わないのです。
- ここに人間の困窮の原因があります。
- ここから人間を救い出そうとしてメシア、イエス様がおいでになりました。
→このイエス様も民に見捨てられ排斥され、死んでいくのです。
- 神は、救い主を殺しさえする人間の罪を通して、
- 人間を救うみ業をなそうとするのです。
- これは人間の思いを越えること、人間が思い浮かびもしなかったことです。
→神は信じて欲しいのです。主イエスがメシアであることを。
- 神は信じて欲しいのです。排斥され、苦しんで死ぬのが本当のメシアであることを。
- 自分を救うために来られた救い主を見捨て、殺してしまう人間の罪を赦し、
- それでもなお人間を救おうとしていることを。
→神がわたしたち人間と交わりを持ちたいと願っていることを、
- 神は知って欲しいのです。
- わたしたちは神の愛を誤解しているかも知れません。
- 神の愛というと、私たちの心を気持ちよくさせてくれる神の愛を考えるかも知れません。
- 神の愛とは、人間を求める神、人間の心を求める神の愛です。
- 人間に見捨てられたくないと願い、人間を激しく求めるのが神です。
- これが神の愛です。
- 私の心を知って欲しい、私の心を分かって欲しいと、私どもに切に願うのです。
- 神は、私どもが神を思うことを求められるのです。
→人が、自分の愛する者が自分にその心を向けて欲しいと願うように、
- 神は私どもを愛し、私どもが神の心を知ることを願っているのです。
- 私どもの心を神に向けることを神は切に願うのです。
- 人間の心を激しく求めるのが神の愛といってもよいのです。
- つまり神は人間を愛し、人間が神を愛することを求めているのです。
→困っている時だけ助けを求め、
- それ以外の時は「あなたのことなんか知らない」「知りたくない」
- 「余計なことは言わないで」と言って神を見捨て、
- 背を向けるる者に向かって、
- なお、あなたの心が欲しい、あなたとの交わりに歩みたい、
- 神はそう語りかけるのです。
→もしわたしたちが神の心を知ったなら、どうなるのでしょうか。
- 神の愛に応えて、神を愛し、神の心を大切にするようになったらどうなるのでしょうか。
- 神との交わりに生きるようになったらどうなるのでしょうか。
- その時、私たちの人生は今とは全く違って見えてくるでしょう。
- 神を平気で見捨てる私どもを赦し、なお、私どもの心を求め、
- 交わりを求める神を知るとき、私どもの人生は違って見えてくるのです。
- 私たちの目に私たちの人生は、いつも何か物足りない、不満がある人生です。
- しかし神の目に見える私たちの人生は、神が恵みを注ごうとする人生なのです。
- 人生の見え方が変わることによって、あなたの人生は変えられるのです。
- あなたは、神との交わりを喜び、大切にする人に変えられるでしょう。
- あなたの人生は、神の恵みと平安が豊かにある人生となるでしょう。
- 信仰とは、神との交わりを喜び、神との交わりに生きることなのです。
憐れみの神さま、あなたを信じるといいながら、あなたの心を思わず、私どもの心をあなたが顧みてくださることだけを願う身勝手な罪を赦してください。
そのような私どもをなお赦し、私どもの心を求められる神さまの愛に応えることができますように。自分の人生をよきものにしようとあえぐわたしたちの努力がまとはずれなものであることを教えてください。あなたのみ心を知り、あなたを愛していくとき、あなたとの交わりに歩むとき、人生の見え方が変わり、あなたによって、私どもの人生がよきものとされることを教えてください。
聖書が伝える信仰が神さまとの交わりに生きる信仰であることをはっきりと教えてください。イエス・キリストの御名により祈ります。