聖書 ルカ 9:46〜51
説教 小さな者が偉い人
→説教題を「小さな者が偉い人」としました。
- 小さな者、無力な者、人から顧みられないような者が偉い人。
- 不思議です。
- この、小さな者が偉い、というイエスの言葉に秘められた恵みを探りたいと思います。
→マルコ福音書の9章33節以下にも、この箇所と同じ物語が書かれています。
- そこでは、イエス様は、「一番先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」と教えています。
- つまり、一番偉い人はすべての人に仕える人だ、とイエス様は答えておられます。
- さらに、マタイ福音書では、弟子たちがイエス様に質問しています。
- 「いったいだれが、天の国で一番えらいのでしょうか」(Mt18:1)。
- これに対して、イエス様は、一人の子供を呼び寄せ、弟子たちの中に立たせて言います。
- 「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。
- 自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国では一番偉いのだ」。
- 子供は無力で、顧みる価値のない存在と見られていました。
- 自分は無力であり、取るに足りないものであると、自分を低くする人が
- 天の国ではいちばん偉い、とイエス様は答えておられます。
- 「あなたがたの中で、最も小さい者こそ、最も偉い」というのです。
- すべての人に仕える人、自分を低くする人ではなく、
- 最も小さい者こそ偉い、というのです
- これは一体どういうことなのか、と考えさせられます。
→実は、48節には訳されていない言葉があります。
- 新約聖書はギリシャ語で書かれていますが、「なぜなら」と訳すことのできる言葉が訳されていません。
- 「あなたがたみなの中で最も小さい者こそ、最も偉いものである」という文の前に、
- 「なぜなら」という言葉があるのです。
→「なぜなら」という言葉を入れるとこうなります。
- 「わたしの名のために、この子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。なぜなら、あなたがた皆の中で、最も小さい者こそ、最も偉い者であるから」となります。
- ここには二つの文章があります。
- 一つは「子供を受け入れる者はイエス様を受け入れる者、イエス様を受け入れる者は神を受け入れる者」という文です。
- もう一つは「あなたがた皆の中で、最も小さい者こそ、最も偉いものである」という文です。
- この二つの文章は、つながっているように思えないのです。
- マルコもマタイも、二つの独立した教えとして書いています。
- しかし、ルカは、「なぜなら」という言葉で二つの教えをつないでいるのです。
- 「なぜなら」を「だから」で言い換えるとこうなります。
- 「あなたがた皆の中で、最も小さい者こそ、最も偉いものである。だから、わたしの名のために、この子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」。
→つなぐのはいいのですが、意味が通らなくなるのです。
- 子供を受け入れる人がイエス様を受け入れる人、そして神を受け入れる人ですから、
- 自分を低くして子供を受け入れる人こそ偉い人だ、というのなら分かります。
- マタイ福音書では、実際「自分を低くして子供のようになる人が、天国でいちばん偉い」とあります。
- でも、ルカでは、弟子たちの中でいちばん小さい者こそ、最も偉いというのです。
- 小さな者になる人ではなく、小さい者が偉いというのです。
→なぜ、いちばん小さい者が、最も偉いのか。
- 皆さん、どう思いますか。
→手がかりは、「受け入れる」という言葉にあるように思います。
- 9章の37節に、「翌日、一同が山を下りると群集がイエスを出迎えた」とあります。
- この出迎える、という言葉が、今日の聖書で、「受け入れる」と訳されています。
- 受け入れるとは、出迎える、歓迎するという意味です。
- 「イエスを受け入れる」、「神を受け入れる」という表現がここにあります。
- 普通、神を信じると言います。
- 「神を受け入れる」という表現は使いません。
- そこで「受け入れる」ということの意味を考えます。
- たとえば、子供の願いを親が受け入れる、受け入れないということがあります。
- 子供の願いを聞いてあげること、それは受け入れることです。
- 子供の願いを断ること、それは受け入れないということです。
- 親の頼みを子供が受け入れることがあり、受け入れないこともあります。
- 私どもは、自分の願いや思いを他の人に受け入れてもらったり、断られたり、
- 他の人の願いや思いを受け入れたり、断ったりしながら生きているということができます。
→ですから、神を受け入れるとは、
- 神の教え、神の思いを我々が受け入れること、歓迎することと言うことができます。
- そして神の教え、神の思いを我々が受け入れないこともあります。
- この教えはむずかしいです、無理です、と言って神の教え、神の思いを歓迎しないのです。
- あたかも、私どもが、神様の上に立って、
- 神の教えを受け入れたり、受け入れなかったりしているかのようです。
- 「神を受け入れる」という表現は、
- 私どもが神を受け入れないことがあることを前提とした表現です。
→聖書に戻ります。
- 弟子たちは、誰が一番偉いかと議論をしていました。
- いちばん偉い人というのは、その人の言うことをみんなが受け入れる人です。
- 自分の主張を皆に受け入れさせることのできる人、それがいちばん偉い人です。
- いちばん偉い人は権力を持っていて、人を従わせるのです。
- 首相は、大臣を任命し、場合によっては、大臣を辞めさせることがありますし、
- 首相が、この件はこうしたいと言えば、その主張が通ります。
- 野田佳彦首相は「社会保障と税の一体改革」を主張し、これが法案になっています。
→偉い人というのは、自分の思いを通すことのできる人、
- 他の人に自分の思いを受け入れさせる人のことです。
- イエス様はある箇所で「偉い人」についてこう語っています。
- 「異邦人の間では、支配者とみなされている人々が民を支配し、
- 偉い人たちが権力を振るっている」。
- 偉い人は人を従わせるのです。
- 自分の思いを人に受け入れさせるのです。
→親は子供に対して、命令することがあります。
- つまり、親の意思を子供に受け入れさせるのです。
- 子供が反抗すれば、親の意思を説得し、受け入れさせようとします。
- そうやって子供を従わせる、それは親が偉いからということができます。
- 親が権威をもって子供を従わせていると言うことになります。
- 偉い親というのは、親の思いを子供に受け入れさせることのできる親、と人は言うのではないでしょうか。
→では、私どもの神、父なる神のやり方はどうでしょうか。
- 神は、私どもが神の教えに従うことを願っておられます。
- 私どもが従いたくないと言ったら、神はどうされるのでしょうか、
- 親が権力を持って子供を従わせるように、神は懲らしめや罰を与えて、
- 私どもを従わせようとするのでしょうか。
- そんなことはなさいません。
- 私どもが神の教えを受け入れて従うか、
- 受け入れないで従わないか、
- 神は私どもの自由に任せているのです。
- 無理矢理私どもに従わせるようなことはしないのです。
→私たちの常識では、偉い人というのは、自分の意思に人を従わせる人です。
- 自分の意思を人に受け入れさせる人です。
- それに対して、最も小さな者とは、
- 自分の思いをだれにも受け入れてもらえない、無力な人のことです。
- 自分の意思を受け入れさせる力のない無力な人のことです。
- 自分の思いを受け入れてくれるのをじっと待つ人のことです。
- 子供は無力な、小さな者になります。
- そして、神もまた、最も小さな者なのではないでしょうか。
- 神も、私どもが神の教えに従うのをじっと待っているからです。
- 私どもが、神の思いを歓迎し、受け入れるのを待っているからです。
- 偉い人のように、自分の意思を、力を持って受け入れさせることはしません。
- 神は敢えてしないのです。
- 神は小さな者の立場に身を置くのです。
→なぜそんなことをするのでしょうか。
- それは神が、私どもを信頼しているからです。
- 神は、私どもを愛しておられるのです。
- 私どもが、神の意思を受け入れると信じるからです。
→ある親は子供に自分の意思を伝え、子供が受け入れることを願います。
- その親は、無理矢理、子供を従わせようとはしません。
- 子供に選択をゆだねるのです。
- 子供の選択を尊重するのです。
- 子供を信頼するのです。
- こんなことをすれば、子供になめられるという人がいるでしょう。
- こんなことをすれば、子供を甘やかすという人もいるでしょう。
- でも子供を愛し、子供を信頼し、子供に選択をゆだねるのです。
- ルカ福音書15章の放蕩息子の譬えに出てくる父親は、まさにこのような親です。
- 子供が間違った選択をしても、子供の自由にさせます。
- 子供を信頼しているのです。
- 放蕩息子の譬えでは、子供は家出をします。
- 父親は、ずっと子供が帰ってくるのを待っています。
- 子供を愛する無力な、小さな者に等しい父親です。
→神こそ、小さな者なのです。
- 自分の思いを受け入れさせる、この世の偉い人とは全く逆です。
- 受け入れない者に対しては力を用いて受け入れさせるこの世の偉い人とは違います。
- 神こそ小さな者なのです。
- 神は私どもを信頼し、私どもが神の思いを受け入れるのを待っているのです。
- 神の教えはむずかしくて守れない、と突っ張る人がいるかも知れません。
- 神はその人を責めず、待っているのです。
- 神は私どもを信頼し、愛しているので、待っているのです。
- 神は自分の思いを受け入れてくれるのを待つだけの小さな者なのです。
→同時に神は、天地を造られた全知全能の神です。
- 言うまでもなく、神こそ最も偉大な方です。
- その神が小さな者になります。
- だから、小さな者こそ、本当は偉い人なのです。
- これが神の基準です。
- 神が小さな者になったということは、
- 小さな者こそ偉いというのが神の基準、神の物差しだということです。
- 自分の力で自分の思いを受け入れさせる人、
- この世では、その人を偉い人といいますが、
- この世の基準と神の基準は異なります。
→神が小さな者であるので、
- 神が力づくて私どもを従うようにはしないので、
- 私どもは、神の思いを受け入れないことがしばしばです。
- 私どもは身勝手で高慢で、罪を犯す者です。
- しかし神は私どもを信頼し、私どもを愛し、
- 私どもが、神の思いを受け入れるのを、神を受け入れるのを待っておられるのです。
→神はあなたを、イエス様を信じるゆえに無条件で受け入れてくださいます。
- そして神は、あなたを信頼し、あなたが神の思いを受け入れることを願い、待っておられるのです。
- そして神は、あなたを愛し、あなたが神の教えを歓迎して、受け入れるのを待っておられるのです。
- 神は小さな者となり、あなたが神を受け入れ、神を信じるのを待っておられます。
- 神は小さな者となり、あなたが神を受け入れ、神に従うようになるのを待っておられます。
愛する天の父なる神様、私どもはつい自分を大きくし、偉くなりたいと願います。何事も自分の思い通りになることを願います。自分の思いを人に受け入れてもらいたいと願います。
でも神さまは、小さな者のように、私どもがあなたを受け入れるのを待っておられます。あなたの愛に満ちた忍耐、私どもへの信頼を感じます。
あなたの愛を信じ、あなたの愛に応える者、あなたの信頼に応える者となります。どうぞ助け、導いてください。
イエス・キリストの御名により祈ります。