聖書 ルカ 10:25〜37
説教 恵みによって生きる
→今日の聖書で律法の専門家が、
- 「何をすれば、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と質問をしています。
- 「何かを手に入れるためには、何かをすればよい」という発想は、信仰には禁物です。
- この発想には、自分はこうしているから、こうなるはずだという思いが伴います。
- あるいは、これができていないから、こうなってしまうという悲しみが伴います。
- 神様の教えを守っているのに、なぜこんな事が起きるのか、と恨み言を言ったりします。
- 放蕩息子のたとえで、兄は、私はあなたのもとでまじめに働いているのに、あなたは友達と宴会を開くために、子ヤギ一匹すらくれないと父に文句を言っています。
- あるいは、私はクリスチャンとして立派でないから家族に伝道ができないんですと言います。そして悲しみます。
- このような発想は、神の恵みによって生きることを知らない発想で、
- 信仰的ではありません。今日の聖書はこのことを明らかにしています。
→今日の聖書は「すると」という言葉で始まっています。
- つまり前とつながっていることを示します。
- しかし、17〜24節は、イエス様と弟子たちの場面で、
- 律法の専門家がいるようには思えないのです。
- 物語としては不自然な印象がありますが、
- 内容的なつながりがあるのだと思います。
→21節でイエス様は、
- 「これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、
- 幼子のような者にはお示しになりました」と書かれています。
- イエス様はこれまで、神様のご支配を人々に宣べ伝えてきました。
- そしてご自分が救い主、メシアであることを示されたのです。
- しかし、ファリサイ派、律法学者などの宗教上の指導者たちは、
- イエス様を通して現れた神のご支配を認めず、イエス様を救い主と認めませんでした。
- 今日の聖書の箇所でも、律法の専門家が登場しますが、
- この人には、神のご支配、イエス様がメシアであることが隠されていることが書かれています。
→25節「すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエス様を試そうとして言った」。
- 彼はイエス様を試そうとしたのです。
- 罠に陥れようとするような悪意はないと思います。
- イエス様がどう答えるのか、イエス様の知識、律法理解がどれほどのものかを見ようとしたのです。
- 自分とどっちが優れているのか、比較してみようと思ったかも知れません。
→この律法の専門家は、イエス様に尋ねます。
- 「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」。
- 彼は、自分の努力で永遠の命を手に入れることができると思っているのです。
- 「受け継ぐ」という言葉は、遺産を受け継ぐという表現で用いられる言葉です。
- 自分が死んだ後、神の国に迎えられ、永遠の命を与えられるという理解です。
- 質問されたイエス様は、答えを言わないで、逆に質問します。
- 「律法には何と書いてあるか、あなたはそれをどう読んでいるか」。
- 「律法には何と書いてあるか」は、聖書にどう書いてあるかという意味です。
- あなたは聖書をどう読んでいるのか、とイエス様は逆に問いかけました。
- 律法の専門家は、聖書の専門家でもありますから、彼は答えることができます。
- 27節で、全身全霊をもって神を愛することと、自分を愛するように隣人を愛するという、二つの掟を述べました。
→マタイ福音書22章には、こんな物語が書かれています。
- そこでもイエス様を試そうとして律法の専門家がイエス様に尋ねます。
- 「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」。
- この時イエス様は、神を愛することと隣人を愛することの二つの掟を答えました。
- つまりこの場面で、律法の専門家が答えたことと同じ事を答えたのです。
- ですから、この場面でイエス様は、「正しい答えだ」と返事をします。
- そして「それを実行しなさい」と答えます。
→するとこの律法の専門家は、自分を正当化しようとして「私の隣人とはだれのですか」と質問をしました。
- 「自分を正当化しようとして」。これはどういうことなのでしょうか。
- イエス様から、「それを実行しなさい」と言われた時、実行していない自分に気づかされ、それを悟られたくなくて、あわてて質問をしたと考えることができます。
- あるいは、自分は隣人愛を実践していることを確認したくて質問したと考えることもできます。
- つまり、隣人を自分のように愛しなさいという戒めは、
- 旧約聖書のレビ記19章18節にあります。
- そこでは、隣人というのはイスラエルの人々のことと考えられています。
- そこで「私の隣人とはだれのですか」との質問に対して、
- イエス様がイスラエル人を愛することだと答えれば、
- 自分は守っていますと答えることができる、そう思って質問したのかも知れません。
- そして律法の専門家に、「だれが強盗に襲われた人の隣人になったのか」と問い、
- 彼が、「その人を助けた人です」と答えたとき、
- イエス様は、「あなたも同じようにしなさい」言います。
- イエス様は彼に、2回、隣人を愛しなさいと答えられるのです。
→この後、この律法の専門家はどうしたのでしょうか。
- それは書かれていません。
- 一つの可能性は、特別なことは何もしないと言うことです。
- 彼は、イエス様を試そうとして質問を投げかけましたが、
- イエス様の答えを聞いて、自分を変えようとはしなかった可能性があります。
- 彼は彼なりに、自分は神の掟を守っていて、
- 永遠の命を受け継ぐだろうと考えているのです。
- イエスが何と言おうと、気にしないのです。
- もう一つの可能性は、イエスの言ったとおり、実践するのです。
- 実践しようとして彼は何を感じたか、です。
- 隣人愛は一回実践すればおしまいというものではありません。
- 生涯を通じて行うべき掟です。
- 恐らく彼は、むずかしい、困難であると感じたと思います。
- そして、自分は永遠の命を受け継ぐことができないと悲しみを覚えたという可能性があります。
→悲しみということでは、実は、ルカ福音書18章には金持ちの議員が登場します。
- 彼は答えを求めて、真剣にイエス様に質問します。
- 「何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」。
- 彼も自分の努力で獲得できると考えての質問です。
- イエス様はこの時、「姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え。という掟をあなたは知っているはずだ」と言います。
- 彼は、「子供の時から守ってきました」と答えます。
- するとイエス様は、「あなたに足りないことがまだ一つある」と言い、
- 「あなたの持っているものをすべて売り払い、貧しい人に施し、天に富を積みなさい。それから、わたしに従いなさい」と教えられました。
- すると彼は、非常に悲しんだのです。
- 彼は大変な金持ちで、財産をすべて売り払い貧しい人に施すことができなかったからです。
- イエス様の命令を聞いて隣人愛を実行しようとして律法の専門家も悲しんだかも知れません。
→金持ちの議員も、律法の専門家も、共に自分の努力で永遠の命を得ることができると考えていました。
- 私どももそのように考えるべきなのでしょうか。
- 私どもは聖書から教えられています。
- 自分の努力で永遠の命を得ることはできないし、
- イエス様を救い主と信じる人に、永遠の命が与えられると
- 私どもは信じています。
- 自分の努力で受け取るのではなく、
- 神様の一方的な好意によって、与えられると私どもは信じています。
- つまり、神様の恵みとして与えられると信じています。
- 恵みによって与えられること、それが律法の専門家には隠されています。
- イエス様のもとに来た病人たち、悪霊に取り憑かれた人たちは、
- 何もしていないのに、病気は癒やされ、悪霊を追い出してもらいました。
- イエス様はいやしという恵みをお与えになったのです。
- 恵みによって癒やしが与えられたのです。
- 普通、人は何かを手に入れるためには、相応の努力をしなければいけないと考えます。
- しかしイエス様は違うのです。恵みを与える方なのです。
- イエス様がどういう方であるのかが、賢い者、知恵ある者には、隠されているのです。
- 賢い者、知恵ある者は、自分の力で努力して手に入れると考えます。
- しかし子供は、ただ「ちょうだい」と言うのです。
→イエス様は、私どもにも隣人愛の教えを実践しなさいと言われるのでしょうか。
- 勿論、私どもに、お命じになります。
- でもそれは、永遠の命を得るために行え、というのではありません。
- 永遠の命は、恵みによって与えられているのです。
- 永遠の命を与えられているからこそ、隣人愛を私どもは実践するのです。
- 私どもは、永遠の命をイエス様を信じたときに与えられて神の子供にされました。
- 私どもは神の子供だから、当たり前のこととして隣人を愛するのです。
→ここでも神は、賢い者、知恵ある者に隠されたことがあります。
- 私どもは隣人を愛することができるようにされているということです。
- 信仰者の口から出る言葉があります。
- 「愛することはむずかしい」。
- 「隣人を愛することは困難だ」。
- 自己中心的な心が自分の中にあって、隣人のことまで関心を持つことができないし、
- 面倒だし、愛せないという思いが自分の中にあることを知っているのです。
- 自分の罪を咎める心があるのです。
- そして愛するのはむずかしい、と賢いクリスチャンは考えるのです。
- 愛することは困難だ、と知恵あるクリスチャンは考えるのです。
- 神様は、幼子のような者には隠されませんでした。
- イエス・キリストが救い主であり、神のご支配が現実にあることを
→信仰者は、信仰によって歩みます。
- 信仰によって生きるのです。何を信じるのでしょうか。
- 永遠の命を与えられ、神の子とされていること、
- 神の子とされている故に、隣人を愛することができるようにされていることを。
- このことを信じて、生きるのです。
- このことを信じて、隣人を愛するべく、一歩を踏み出すのです。
→幼子のような信仰者は、自分の力で愛することができるとは考えません。
- 神の恵みによって、神の子とされているので、愛することができると信じるのです。
- そのようにして一歩を踏み出す努力をするのです。
- 失敗はあるでしょう。しかし愛することができる者とされていることを信じるのです。
- 神の恵みによって、愛することができる者とされていることを信じるのです。
- 子供のように素直に信じるのです。
- 幼子のような信仰者は、神の恵みを信じて生きるのです。
- 神の恵みを信じて、神様のご支配が自分の身に及ぶと信じて、一歩を踏み出すのです。
- すると隣人を愛することのできる自分を見いだすのです。
- あなたが神の恵みを信じるなら、あなたは隣人を愛することのできる人にされているのです。
- イエス様による救い、それは罪の赦しだけではなく、
- わたしたちを生まれ変わらせ、愛することのできる人に造りかえるところにあります。
- 私もあなたも、神様のご支配の中を生きるのです。
- 神様のご支配は、信仰者を造りかえるのです。
- 水曜の朝の祈祷会では、信仰者を造りかえる神様の恵みを目の当たりにすることができてうれしいです。
天の父、信仰においては、
何をすれば何が得られるという発想を捨てることができますように。
私どもは自分の力ではなく、恵みによって生きる者であることを教えてください。
恵みによって生きるとは努力をしなくてよいということではありません。
あなたの恵みを信じて一歩を踏み出す信仰に基づく努力をすることであると教えてください。
幼子のように、素直に信じるものとしてください。
あなたが共におられ、あなたのご支配がわたし自身の上に及ぶことを
あなたの恵みが私を生かすことを信じるものとさせてください。
信じて一歩を踏み出すものとしてください。
イエス・キリストの御名により祈ります。