聖書 コリント二 5:16〜21
説教 和解をもたらすキリスト
→自分の気持ちを分かってもらえない、これは辛いことです。
- 私どもは自分に至らないところがあるので、
- 自分の気持ちを分かってもらえないことがあります。
- 自分の気持ちが伝わらない、伝えられない、もどかしく辛いことです。
→パウロもまた、自分の気持ちが分かってもらえなくて、この手紙を書いているのです。
- 自分の気持ちを分かってもらいたくて書いています。
- 自分が本当に神から遣わされた者であることを分かって欲しくて、
- この手紙を書いています。
- コリントの教会は、パウロがイエス・キリストを宣べ伝えてできた教会です。
- パウロはキリストを各地に宣べ伝えるために旅行をします。
- コリントの教会にとどまり続けたわけではありません。
- パウロがコリントの町を去った後、別な人が来て、パウロは間違っていると告げるのです。
- パウロは生前のイエスを知らないし、
- 自分たちはエルサレム教会からの推薦状があると言って、
- パウロが使徒であるというのはとんでもない、とパウロを非難するのです。
- パウロが非難される理由の一つは、パウロの福音理解が深いからです。
- 理解してもらえないのです。
- 理解してもらえないだけでなく、間違ったことを教えていると非難されるのです。
- イエス様だって、当時の宗教指導者たちから間違ったことを教えていると非難され
- 挙げ句の果てに神を冒瀆している、といって十字架につけられたのです。
→5章11節に自分の思いを知って欲しいというパウロの気持ちが表れています。
- 「わたしたちは神にはありのままに知られています。
- 私は、あなたがたの良心にもありのままに知られたいと思います。」
- 神様は、私たちのありのままをご存じです。
- 神様に、私たち自身のことを隠すことはできません。
- そのようにありのままの私を知って欲しいというのです。
- そうすれば、自分が本当にイエス・キリストから使徒に召され、
- 使徒として働いていることを分かってもらえるというのです。
→どうしたらそのことが伝えられるのでしょうか。
- それはパウロが、救い主イエス・キリストをどう理解しているのか、
- イエス様のもたらす救いをどう理解しているかを伝えること以外に方法はありません。
- どうしたら牧師は、神様から遣わされて福音を宣べ伝える者とされていることを告げることができるのでしょうか。
- パウロと同じです。
- 牧師が救い主イエス・キリストをどう理解しているのか、
- イエス様のもたらす救いをどう理解しているかを伝えること以外に方法はありません。
→そもそもパウロは、クリスチャンを迫害していました。
- 聖書に登場するパウロの最初の姿はイエス様を信じる者を迫害する姿でした。
- その彼がある時、突然、イエス様を宣べ伝える者に変えられます。
- 生きかたが逆転してしまうのです。
- 使徒言行録の9章では、復活したイエス様とパウロは出会ったと書かれています。
- ガラテヤの信徒への手紙では、パウロ自身がこう書いています。
- 「神が、御心のままに、御子をわたしに示して、
- その福音を異邦人に告げ知らせるようにされた」。
- それまでのパウロは、自分は神の教えを誰よりも、
- 誰よりも守っていると自負していました。
- そしてイエスを信じる信仰は間違っている、神を冒瀆さえしていると信じ、
- クリスチャンを迫害していたのです。
- しかし、神がパウロにイエス様を示されたというのです。
- そして彼は、イエス様を宣べ伝える者に変えられたのです。
- つまり、イエス様の死についての新しい理解が、彼に与えられたのです。
- イエス様が救い主、メシアであることを知ったのです。
- イエス様がメシア、キリストであることを知ったのです。
→では彼はイエス様のことをどのように知ったのでしょうか。
- イエス様の与える救いをどのように理解したのでしょうか。
- そのことを直接彼は語っていません。
- しかしパウロの書いた手紙を読む時、パウロの理解を知ることができます。
- たとえば14節にこうあります。
- 「一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります」。
- すべての人が死んだ! どういうこと?
- イエス様を信じる人はすべて死んだ、というのです。
- パウロの洗礼理解に、彼の救い理解が明確に現れています。
- ローマの信徒への手紙6章3節以下です。
- 「それともあなたがたは知らないのですか。
- キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、
- またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。
- わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、
- その死にあずかるものとなりました。
- それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、
- わたしたちも新しい命に生きるためなのです。
- もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、
- その復活の姿にもあやかれるでしょう」。
→イエスを信じて洗礼を受けるとはどういうこととパウロは述べているのでしょうか。
- 洗礼とはイエス様と結びつくことだ、一つになることだというのです。
- そしてイエス様が十字架で死んだように、私たちも死ぬことなんだ。
- さらにイエス様が復活したように、私たちも復活することなんだ。
- これが洗礼を受けた時に起こることなんだ、というのです。
→こんな風に洗礼のことを述べると、自分に洗礼を受ける資格があるのだろうか、
- と考える人がいるかも知れません。
- 心配はいりません。
- イエス様を救い主として信じて生きていきたい、との思いさえあればそれで十分です。
- 神の恵みとして、私たちが死に、復活すると言うことが神によって引き起こされるのです。
→16節でパウロはこう言います。
- 「それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。
- 肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません」。
- 生前のイエス様が何をしたのか、何を教えたのか、パウロは知りません。
- 生前のイエス様と出会っていない、とパウロは使徒としての権威を疑われるのです。
- しかしそれが大事なのではない、とパウロは言うのです。
- 死んで復活したイエス様がどんな救いをもたらすか、それが大事なのだと言うんです。
- 17節で、パウロは言います。
- 「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。
- 古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。
- これらはすべて神から出ることであって」。
- イエス様を信じる者に与えられる救い、
- それは新しく造られた者にされることだというのです。
- イエス様の弟子のペトロは、
- 「イエス様を信じる人は罪の赦しが受けられる」(使徒言行録10:43)、
- これくらいしか、イエス様の与える救いについて述べていません。
- パウロの救いの理解の何と深いこと、そして理解しがたいこと。
→パウロには、神の教え、律法を誰よりも守ってきたという自負がありました。
- 彼が神からイエス様を示された時、彼は打ちのめされたのです。
- これは私の想像です。
- パウロが直接述べているわけではないので、私の推理です。
- 神の戒めを守ることと神の心を大切にすることは全く別だ、
- そのことに気がつかされたのです。
- パウロは、神の戒めを誰よりも守ってきたとの自負がありました。
- しかし、神が送られた救い主を受けとめることはできませんでした。
- それどころか救い主イエス様を信じる者を迫害さえしたのです。
- 彼は、神の御心を全く理解していなかったのです。
- このことに気がついた時、愕然としたと思います。
- 恐らく、打ちのめされたに違いなのです。
- 膝を折って、うなだれたに違いないのです。
→しかし彼は知るのです。
- 主イエスが何のために死んだのかを、知るのです。
- (21節)「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました」。
- イエス様の死、それは、神によって罪とされたということです。
- つまりイエス様が罪をつぐなういけにえとなったということです。
- 神はイエス様を罪を償ういけにえとしたということです。
→イスラエル民族は神の民でした。
- そして神の戒め、律法を与えられた民族でした。
- 彼らは神の民であり、神の民として神の律法を守って生きる民族でした。
- 律法を守って生きる、それが神の御心でした。
- イスラエルの民が神の教えに背いたときどうするかです。
- 神は罪の償いとして、いけにえを献げることを命じました。
- ここで大切なこと、そして神の願っておられることは、
- 信仰とは神との交わりだと言うことです。
- 神と向き合って、神と共に生きることだと言うことです。
- 人間が罪を犯せば、それは神を不愉快にさせると言うことです。
- 人間が罪を犯せば、神の心を傷つけると言うことです。
- 神は心を痛めるのです。
- そうすると神と人間の関係は、正常ではなくなるのです。
- 夫あるいは妻が相手を傷つけるようなことを言ったら
- その後、にこやかな顔をして相手に向き合うことはできません。
- 関係の回復が必要です。
- 罪の償いとしていけにえを献げるのは、神との関係を回復するためです。
→関係を回復することを和解と言います。
- 通常和解をするためには、
- 悪いことをした方が、謝罪をし、償いのしるしを見せます。
- そして相手が、償いのしるしを見て、
- その謝罪が本物であると考えると、その謝罪を受け入れます。
- そのようにして関係の回復、和解がなされます。
- だから、イスラエルの民は、罪を犯した時、罪の償いのいけにえを献げるのです。
→ところが、イエス様といういけにえは何なのか、ということです。
- 「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました」(21節)。
- 神の方から、罪の償いのいけにえをさし出したということです。
- 本来、それはおかしいことです。
- 罪を犯した方が、いけにえを献げるのです。
- いけにえを献げて赦しを求めるのです。
- ところが赦しを与える方が、いけにえを出すのです。
- これは何を意味しているのでしょうか。
- 神は、和解するように私たちを招いているということです。
- 神との関係に、つまり信仰に生きるように招いているということです。
- イエス様を信じる者を迫害していた自分が赦されていることを。
- イエス様を宣べ伝える者とされることには、神の赦しがあったのです。
- さらに、信仰とは戒めを守ることではなく、神の心を大切にして生きること、
- あたかも目の前に見ているように神をおいて神に向き合うこと、
- さらに言えば、神と共に歩いて生きること、それが信仰だと理解したのです。
- 戒めをどんなに立派に守っても、神の心は全然知らない、そういうことがありうるのです。
- 本来、神の戒めを守るとは、その戒めの背後にある神の心を知ることが必要です。
- でも人は、神の心を知ることなく、戒めを守ることはできます。
- そのような戒めの守り方、
- それは神を信じる信仰者の生き方とは関係ないのです。
→そしてパウロは知ったのです。
- 自分が、神の心を大切にできる人間に造りかえられていることを知ったのです。
- これは彼にとって大きな喜びでした。
- 心の底から突き上げてくる喜びでした。
→神は和解を与えてくださった。それだけではない。
- 今一度、神と向き合い神と共に生きるのにふさわしい自分に変えられたのです。
- 17節で、パウロは言います。
- 「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。
- 古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。
- これらはすべて神から出ることであって」。
- イエス様を信じる者に与えられる救い、
- それは新しく造られた者にされることだというのです。
- これは神から出たこと、神の恵みとして与えられるということです。
- これを信じる、それが救われるということだというのです。
- この素晴らしい救い、これを宣べ伝えるために、私は神から召されて使徒とされたのだとパウロは言うのです。
- 18節
- 「神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました」。
→パウロはこのように、自分が何を信じているのか、
- 使徒としての自分の務めが何であるかを語り、
- 自分が神から遣わされた使徒であることを伝えているのです。
- そしてパウロは言います。
- 「ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、
- わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。
- キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい」。
- 「キリストの使者」とありますが、使者という言葉は大使という意味の言葉です。
- 大使というのは、自分の国を代表する人物です。
- キリストの使者とは、キリストの代理という意味です。
- キリストは天に上げられ、パウロは、キリストの代理として和解を宣べ伝えているのです。
→神は今も、福音を伝える者を召し出し、その者を通して、和解に招いているのです。
- イエス様の与える救いを受け取るように招いているのです。
- あなたも招かれているのです。
- 「キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい」。
- あなたに向けられた神の言葉です。
祈り
イエス様をこの世にお遣わしになり、私どもを救いに導いてくださる父なる神、あなたの救いを感謝します。
あなたの救いの素晴らしさの故にわたしたちは戸惑い、受け入れることにためらいを覚えがちです。
その救いが本当に自分に身に起きるのか、信じられず、あなたの救いを小さなものにしてしまいます。
そのような私どもを憐れみ、あなたの救いの豊かなことを教えてください。あなたの救いの豊かなことを、信仰の兄弟姉妹の歩みの中に見て取ることができるようにしてください。
そして自ら、救いの豊かさを味わい、その素晴らしさを伝える者とならせてください。イエス・キリストの御名により祈ります。