聖書 ローマ 6:1〜11
説教 キリストと一つ
→キリストによる救い、それは罪からの救いです。
- キリストを信じれば罪は赦される、これは大切なメッセージです。
- 人は自分が何をしたか、どんな人間かによって救われるのではなく、
- キリストを信じれば救われます。
- 人はありのままで救われます。
- この教えは、誤解されることがあります。
- たとえば、死ぬ前まで好きに生きて、死ぬ直前にキリストを信じれば良いとか、
- 無理して神の戒めを立派に守らなくてもいいのではないか。
- 罪を犯しても赦していただけるわけだし、
- 罪から清められようだとか、神の教えを守ろうとか、
- あまり厳しく言わなくてもいいんじゃないの。
- そんなに熱心にならなくてもいいんじゃないの。
- 罪を犯しても赦しの恵みを与えられるんだから、
- 感謝すれば、いいんじゃない。
- 罪の赦しは恵みでしょ。
- この恵みを感謝すればいいんじゃないないの。
→パウロは1節で「恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか」と述べます。
- 恵みを受けるために罪を犯そうという人はあまりいないと思います。
- でも赦しの恵みがあり、神はありのままの私たちを赦してくださるのだから、
- 罪からの清めを求めよう、罪を克服しようなどと言わなくてもいいんじゃない
- このように語る人にパウロは、「あなたがたは知らないのですか」と言います。
- これはかなり強い言葉です。
- そう言ってパウロは、洗礼について話を始めます。
→教会では、信仰をもちたいという人に洗礼を授けます。
- イエス・キリストを救い主と信じ、信仰生活をしたいと
- おっしゃる方がいれば、洗礼を授けます。
- 洗礼についてあまり難しいことは言いません。
- 私たちが自分の罪を深く知るのは、むしろ信仰生活をしてからです。
- 神の御心を知るに及んで、自分の罪深さを新たに知らされます。
- ですから、洗礼を受ける人には、ここでパウロが述べるような
- 洗礼についての教えを語ることはしません。
- おそらく理解してもらえないと思います。
- しかし信仰生活を送っている私たちは、
- つまり自分の罪について知るようになった私たちは、
- 洗礼について深く知ることは大切なことだと思います。
→ローマの教会は、パウロが伝道してできた教会ではありません。
- これからローマに行きたいという願いをパウロは持っており、
- 自己紹介の意味で、パウロはこの手紙を書いています。
- 洗礼についてパウロは、直接教えたわけではありません。
- 「あなたがたは知らないのですか」は、知って欲しいとの強い思いが表れています。
- そして私たちも「知らないのですか」と問いかけられていると受けとめたいです。
- 「あなたはしらないのか」と神様から、問いかけられていると言ってよいと思います。
- 長年教会の礼拝で説教を聞いている人も、ここに書かれていることは
- 初めて聞くような思いをするかもしれません。
→「キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けた私たちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを」。
- このことをあなたがたは知らないのですか、というのです。
- でも日本語としてもわかりにくい文章です。
- 口語訳、新改訳、その他の日本語聖書を読んでも、わかりやすい訳ではありません。
- 文字通りギリシャ語から訳すと、
- 「あなたがたはキリストの中に入る洗礼を受けたのであり、またキリストの死の中に入る洗礼を受けたのです」。
- キリストの中に入る、キリストの死の中に入る、意味が分かりにくいです。
- 福音書を読むと洗礼者ヨハネと呼ばれる人が人々に洗礼を授けています。
- 洗礼を受ける人は、頭を手で押さえられて
- 体全体を水の中に沈めさせられるのです。
- 水の中に入るのです。
- そのように私たちの洗礼は、
- キリストの中に沈められることなのだとパウロは述べるのです。
- キリストの中に沈み込む、それが洗礼だと言っているのです。
- さらにキリストの死の中に沈み込む、それが洗礼だというのです。
- つまりキリストと一つになること、それが洗礼だというのです。
- キリストの死と一つになること、それが洗礼だというのです。
→キリストは十字架の上で死に、葬られ、復活させられました。
- そこでキリストと一つになった信仰者も、
- 十字架で死に、葬られ、復活させられるとパウロは語るのです。
- 4節。「私たちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかる者となりました」。
- つまり、私たちは、キリストの死の中に入り、キリストと共に死んだというのです。
- 「それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、
- 私たちも新しい命に生きるためなのです」とあります。
- 私たちもキリストと同じように死んで復活させられて新しい命に生きるのだというのです。
- このように洗礼というのは、洗礼を受ける者が死んで、復活させられて新しい命に生きることなのだというのです。
- このことをあなたがたは知らないのかというのです。
- あなたは知っていましたか。
→そうはいうものの、私たちの何がいったい死んだのでしょうか。
- 私たちは洗礼を受けたとき死んだ覚えがありません。
- このことを考えるとき、創世記3章の物語を思い出します。
- エデンの園にアダムとエバがいました。
- エデンの園の中央に、命の木と善悪の知識の木の二本の木がありました。
- 神は、アダムに善悪の知識の木の実は食べてはいけないと命じました。
- それを食べると必ず死んでしまうと警告したのです。
- しかしアダムとエバは食べてしまいました。
- でも彼らはピンピン生きています。
- 何が死んだのでしょうか。
- 善悪の知識の木の実を食べる前と後で変化したことが一つありました。
- 食べる前、神が近づいても彼らは何ともなかったのですが、
- 食べた後、神が近づくと彼らは恐くなり、隠れたのです。
- 今まで神と共に生きていたのに、神を避けるようになったのです。
- 何が死んだのか。神と共に生きる人間が死んだのです。
- そして神なしに自分で生きていく人間になったのです。
- 神の警告を破り、
- 神よりも自分が賢いと考える人間になったのです。
→十字架で死に、葬られ、復活させられるというキリストの出来事が
- キリストと一つにされた信仰者の出来事になるのです。
- 6節では、「私たちの古い自分がキリストと共に十字架につけられた」とあります。
- 古い自分が死んだのです。
- 古い自分とは何でしょうか。
- 古い自分とは、あのアダムのように、神なしに生きていく人間、
- 神よりも自分が賢いと考える人間です。
- 生まれながらの人間は神を知りません。
- この神を知らない人間が、古い自分です。
- 神と対立して生きる人間、神に反逆する人間、
- 神なしに生きる人間、
- 神を信じていたとしても、
- 神の御心を考えないで生きる人間、それが古い自分です。
- あなたにも古い自分があるはずです。
- その古い自分が死んだというのです。
→古い自分が死んだらどうなるのでしょうか。
- 「罪に支配されたからだが滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためである」とあります。
- 体というのは人間そのもののことです。罪に支配された人間が滅ぼされるというのです。
- 正確に言えば、人間を支配しようとする罪の力が無力にされたという意味です。
- ここに出てくる「罪」という言葉は単数形が用いられています。
- つまり罪というのは一種の力、人間を支配しようとする力を指します。
- この力に負けて人間は具体的な罪を犯します。
- 私たち人間は、罪を犯さないでいることができません。
- 私たちは、外から内から、罪を犯すように迫る力のもとにあるのです。
- しかし個々の罪を犯すときは、避けようと思えば避けられるのです。
- だから罪の責任は負うのです。
- しかし、人間は罪を犯さずにいることはできません。
- 結果として人間は罪の奴隷になってしまったのです。
- 皆さんにも、この悪い行動、習慣はやめたいと思ってもやめられない、
- という経験があるでしょう。
- 自分の悪い心の傾向を改めたくても直せない、そういうことがあるに違いありません。
- 罪に支配されている、それが古い人間です。
→罪に支配されたからだが滅びる、つまり古い自分が死んだらどうなるのでしょうか。
- 死んだ人には、罪は何の力も及ぼすことはできません。
- この世の法律では、どんな犯罪人でも死んでしまえば、その罪は問われません。
- 死んだ人に裁判は行いません。死者には、法律の力は及ばないのです。
- それと同じように、古い自分が死んだら、罪の力は効力を失うのです。
- 7節、「死んだ者は、罪から解放されています」。
- その結果、罪から解放されて生きることが生じるのです。
- そのことが、8節、「キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます」とあります。
- 洗礼を受けた信仰者は、罪の支配から解放され、あらたにキリストと共に生きるのです。
→10節、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、
- 生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。
- 古い自分の死についてもう一度語られます。
- キリストはただ一度罪に対して死なれました。
- キリストは殺されました。人間の罪によって殺されました。
- 宗教指導者たちの罪、自分の責任を逃れようとするローマの総督の罪
- 付和雷同し、十字架につけろと叫ぶ群集の罪。
- キリストに対しては罪が勝利し、キリストが敗北して死にました。
- キリストが死ぬことによって、罪はその力をキリストに及ぼすことができなくなりました。
- そしてキリストと一つにされて死んだ私たちにも、
- 罪はその力を及ぼすことができなくなったのです。
- そしてキリストが神に対して、つまり神との関わり、
- 神との交わりに生きておられるように。私たちも神に対して生きるようになるのです。
→アダムの場合は、神と共にあることを喜ぶ人間が死に、
- 神よりも自分を賢いとし、神なしに生きる人間が生きることとなりました。
- 今や、キリストにおいてこれと逆なことが起きるのです。
- 古い人間は死に、神と共にあることを喜ぶ人間が復活するのです。
- 私ども洗礼を受けた者は、そのような人間だというのです。
→いやそうはいっても現実に、私の心には罪に負ける心、罪に傾く心があるとおっしゃる人がおられるでしょう。
- 古い自分は死んでいないという人もおられるでしょう。
- 注意して欲しいのは、キリストが十字架で死に葬られ、復活させられたように
- 古い人間、罪の体が滅ぼされるという出来事が起きたということです。
- 私の中にも古い自分があり、あなたにも古い自分がある。
- 彼にも、彼女にも古い自分がある。
- キリストと共に、すべての「古い自分」は十字架につけられたのです。
- これは神の出来事として起きたことなのです。
- これは実感できることではないのです。
- 私どもは、神の存在を実感しないでも、神を信じています。
- そのように、古い自分の死を実感しないでも信じるのです。
- そのことが11節で言われています。
- 「あなたがたは自分の罪に対して死んでいるのだと考えなさい」。
- 信仰者は神の存在を実感できなくても神を信じています。
- つまり神が存在すると考えているのです。
- そのように古い自分が死に、罪から解放されたと考えるのです。
- それと同じように、キリストが復活して神に対して生きているように、
- 私どもも神に対して生きる、と考えるのです。
- 神と共にあることを喜び、神の心を大切にする者として生きることができる者とされたと考えるのです。
→私どもは信仰者です。
- だから実感で考えないのです。
- 自分が罪から解放された、そんな実感はない。
- 私は新しい命に生きている、そんな実感はない。
- 実感ではないのです。
- まず神の出来事を信じるのです。
- 洗礼とはキリストと一つにされることであり、
- キリストに起きた出来事がキリストと一つにされた私どもの身にも起きるのです。
- 私どもも死に、罪の支配する力から解放されました。
- 罪の力がなくなったのではありません。
- 罪の力はもはや私たちを打ち負かすことはないのです。
- なぜなら、キリストを復活させた神の力が恵みとして、
- 私たちに及ぶからです。
- 今や、私たちは神の恵みの支配の下に生きているのです。
- 神の恵みの力が支配する中を生きているのです。
- それなら、罪の中にとどまるなんて、できるはずがありません。
→あなたが洗礼を受けたのは、キリストと一つになるためでした。
- キリストが死んで葬られ、復活させられてように、
- あなたも死んで、新しい命に生きるのです。
- 神に対して生きるのです。神の心を大切にして生きるのです。
- あなたは罪の支配の下ではなく、恵みの支配の下に生きるようにされたのです。
- これが福音です。
祈り
私どもを救いに導いてくださった父なる神
あなたが与えてくださる救いの素晴らしさを教えられます。
罪の支配の下から、あなたの恵みの支配の下へ移される救い。
古い自分が死んで新しい命に生きる人間に新しくされる救い。
にわかには信じがたいような救い。
しかしそれが救いなのですね。
感謝をもってこの救いをいただきます。
私どもがもはや罪の支配下にないこと
神様の恵みによって新しい命に生きる者とされたこと、
古い人間が死んで神様との交わりに生きる者とされたと考えて
歩んでいきます。
私どもの歩みを祝福してください。
イエス・キリストの御名により祈ります。