本日のメッセージ(2012.4.15)
ルカ 10:38〜42 必要なことはただ一つ
聖書には、意外なことが書かれています。たとえば、今日の短い物語。イエス様がマリアに、お姉さんを手伝いなさいといえば、納得できます。ところが、マリアは手伝わなくてよい、とイエス様は言うんです。どうしてって思いますよね。
放蕩息子の物語というたとえ。ルカ福音書の15章に出てきます。放蕩をして親の財産を使い果たした息子が帰ってくると父親は宴会を開くんです。父親のもとで真面目に働いている息子に対しては、父親は宴会を開かないんです。兄が文句を言うと、あなたの弟が帰ってきたんだから、いいじゃないか、と父親は言いますが、兄からすれば不公平だし、何て甘い父親なんだと思う人もいます。
その他にもありますが、すぐには納得できないようなことが聖書には書かれています。でも神は言うんです。
「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道は、あなたたちの道と異なる。天が地を高く越えているようにわたしの道はあなたたちの道をわたしの思いは、あなたたちの思いを、高く超えている」。
今日も、この神様の思いに心を向けたいと思います。
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イエス様はある村に入りました。マルタという女性が、イエス様を家に招き入れたとありますから、マルタは恐らくこの家の女主人です。マルタとマリアの姉妹は、ヨハネ福音書にも登場します。彼女たちの家は、ベタニアという名の村にあることが分かります。イエス様と弟子たち一行を迎え入れ、マルタは食事の準備をします。彼女は、食事の準備が大変で、心を乱してしまいます。そしてイエス様に近寄って言うのです。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」。
マルタがマリアに手伝いを頼んでいたかどうかわかりません。頼んで断られたのかも知れないし、頼んでいないかも知れません。いずれにせよ、猫の手も借りたいほど忙しいのに、マリアは手伝ってくれないのです。そこで彼女はイエス様に、マリアに手伝うように命じてもらいたいわけです。「何ともお思いになりませんか」という言葉には、イエス様を非難する気持ちも表れていると思います。
マルタに対してイエス様は答えます。
「マルタ、マルタ」
と2回名を呼びます。これは親しみを込めた呼び方です。アブラハムが息子イサクを献げようとしたとき、神は、「アブラハム、アブラハム」と2回呼びました。神がモーセをイスラエルの民の指導者に立てるときも「モーセよ、モーセよ」と2回名を呼びました。イエス様はマルタに対して親愛の情を込めて名を呼ぶのです。しかしイエス様の言葉に、マルタは突き放されたような思いを抱いたと思います。マリアには手伝いをさせない、とはっきり言います。マルタに対しては、ねぎらいの言葉もなく、あなたは思い悩み、心を乱していると告げ、さらに必要なことはただ一つ、と分かったような分からないような言葉を言います。手伝うように言って欲しいという願いは、見事に断られました。必要なことはただ一つ、となんだか叱られたようにマルタは感じたのではないでしょうか。
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イエス様は勿論、マルタの気持ちは十分知っていました。イエス様や弟子たちのために最善のもてなしをしようという気持ち、迎えた客を心を込めて持てなそうとする気持ちをイエス様は知っていました。思い悩み、心を乱しているマルタに対して「必要なことはただ一つ」
とイエス様は言いました。続いて
「マリアは良い方を選んだ」
と言います。マリアは食事の準備ではなく、イエス様の話を聞いていました。ですから必要なことと言うのは、イエス様の話を聞くことでした。マルタだって、イエス様の話は聞きたかったでしょう。しかし家の主人として、もてなしをしなければなりません。マリアは手伝わないので、ひとりでしなければなりません。それで思い悩み、心を乱したのです。そんなマルタにイエス様は、必要なことはただ一つと言いました。あなたに必要なことはただ一つと言ったのです。つまりそれは、イエス様の話を聞くことです。イエス様の話を聞くことをしないで、食事の準備で心を乱してしまう、それは本末転倒だというのです。必要なことはイエス様の話を聞くことなのだから、食事の用意は、簡単でいいというのです。食事の準備をすることとイエス様の話を聞くこと、どちらが大事なのかというのです。
家の主人として客を迎えたわけですから、食事の用意は必要です。そしてイエス様の話を聞くことも大切です。どちらがより大切かということです。マルタは精一杯のもてなしをしようと努力しました。そうやって食事の準備ができたらどうなったでしょうか。「これだけの準備大変でしたでしょう」「とてもおいしかったですよ」「ありがとう」このようにイエス様や弟子たちから喜ばれたことでしょう。イエス様の話を聞くのは、ただ聞くだけです。マルタは喜んでもらえることを優先したのです。私たちもマルタのように、イエス様の話を聞くよりは、大事なことに力を注いで人に喜ばれたいと思ったりします。あるいは、自分を喜ばせたり、自分に必要なことを優先したりします。
イエス様は言うのです。必要なことはただ一つです。それは私の言葉にきくことです。あるいは神様の言葉を聞くことを最優先にしなさいと言うのです。そうすればマルタは、食事の準備を簡単にすませ思い悩むことはなく、心を乱すこともなく、イエス様の話を聞くことができたのです。
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そもそもなぜ、イエス様の言葉に聞くことが大切なのでしょうか。マルタは、食事の準備で、思い悩み、心を乱していました。それは、神の言葉に立って生きていないからです。マルタは、イエス様一行に最善のもてなしをしようと考えました。それを最優先にしたのです。自分がイエス様のために一生懸命最善のことをしたことを誇りに思えることでしょう。イエス様や弟子たちから、感謝やねぎらいの言葉を受けることができるでしょう。そうすれば、それは喜びとなるでしょう。彼女は、私はよくやったのだという自分の喜び、自分の満足を優先したのです。ところが食事の用意は思い通りに進まず、マルタは思い悩み、心を乱し、イエス様をも非難したのです。神の言葉に立たない人の歩みには、破れが生じるのです。不満、非難、悩み、心を乱す、これは神の言葉に立って生きていない処から来る病気のようなものです。この短い物語の前に、善いサマリア人のたとえの記事があります。そこでは、何をしたら永遠の命を得ることができますかという質問が出されます。そして神を愛し、隣人を愛することが必要というのが答えでした。そして隣人を愛するとはどういうことかが、サマリア人のたとえで説明されました。マルタとマリアの話は、神を愛することは、神の言葉を最優先にすることですと教えていると考えることができます。
神の言葉は人間を自由にするところに特徴があります。エジプトで奴隷で苦しんでいたイスラエルの民を神は救い出し、自由に生活できる地へイスラエルの民を導きました。イエス・キリストは、わたしたちを罪と死の支配から自由にするために十字架の死を選ばれたのです。人間が自由に生きること、愛と喜びに生きることが神の願いなのです。神が語られる言葉、それは人間を愛し、人間の幸いを願う神が語られる言葉なのです。人間を愛してくれる神の言葉だから、最優先で聴くべきなのです。
神の言葉は人を自由にします。もしイエス様の話を聞くことを最優先にしたいと思ったのなら、マルタは簡単な料理を準備したことでしょう。もしだれかが食事が粗末だと不満を言ったとしたら、イエス様の話を聞きたかったのですと答えればいいのです。そしてイエス様も、マルタが話を聞いてくれることを喜ばれたでしょう。あるいはマルタが最善のもてなしをしたいと考えたのなら、労をいとわないで、喜んで準備したことでしょう。もし大変で間に合わないとしたら、料理の数を減らすなりして料理をつくることを喜んだことでしょう。奉仕を喜ぶ、神の言葉に立つ人の特徴です。奉仕をしながら不平を言う、それは奉仕ではないのです。
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神の言葉を聞くことを最優先にしないこと、それは思い悩み、心を乱すこと、不平や不満の温床なのです。人間の事柄は、いかようにもなるのです。イエス様をもてなす食事は、簡単でもいいのです。できる最善のごちそうを用意しなくてもいいのです。人間の思い通りにはならないことがあります。思い通りにならなくてもいいのです。なぜなら神が必ず導いてくださるのです。神の導きの中を歩む、それが人間にとって最善なのです。何でも自分の思い通りになると、人間は傲慢になります。必要なことはただ一つ、神の言葉に聞くことなのです。そこから自由な心で行う奉仕が生まれます。マルタが一生懸命食事の用意をしていることをイエス様は知っていました。マルタが心からの喜びをもってすることをイエス様は願われました。だから、必要なことはただ一つと言われたのです。不平や不満は、神の言葉を聞くことの不足から来るのです。ふるさと不足に読んで効く、なんとか新聞というコマーシャルがありますが、御言葉不足は、私たちにとって大変な損失です。
あなたが一生懸命に頑張っても、一生懸命に生きていてもうまく行かないことがあるとしたら、それは御言葉不足です。自分でさらに頑張って何とかしようとするのか、神の言葉に期待するのか、それは人それぞれの選択です。そして人は自分の選択の結果を刈り取るのです。あなたが神の言葉を聞き、神の言葉という種を蒔く時、あなたは自由と喜びという実を刈り取ることができます。イエス様は、待っているのです。あなたが神の言葉を求めることを。あなたの手元には聖書があります。礼拝では説教がなされます。祈祷会でも聖書の学びがなされます。神の言葉はあなたの近くにあるのです。