→私は牧師になって以来、二つの問いに悩んできました。
- 二つの質問にどう答えたら良いか、悩んできました。
- 一つは、聖書はどう読んだらいいかという問いです。
- もう一つは、祈りはどうしたらいいのか、という問いです。
- 自分で答えを出さなければ、人に教えることができません。
- キリスト教書店に行けば、参考になる本はいくつもあります。
- 読みますが、今ひとつ納得できません。
- あるいは、なかなか書かれているとおりに実行できません。
- 本当にこれでいいという答えを見つけること、
- そして日々自分が実践して、これでいいんだと確信できる答えを見つけること、
- それは私にとって課題でした。
→幸い、聖書をどう読んだらいいのかについては答えを得ました。
- 自分でも納得できるし、
- 生きて働かされる神様を信じることができるようになりました。
- 聖書の読み方を学びたい方には、学びを提供しています。
- しかし、祈りについてはなかなか答えが出ませんでした。
- でも今日の説教の準備の中で、答えが与えられたように思いました。
- 祈りには信仰が現れます。
- どのような信仰に生きているかが、祈りにそのまま現れます。
- ですから神様が求める信仰に生きるなら、自ずと祈りが生まれるのです。
- 大事なことは聖書が伝える信仰に生きることなのでした。
- イエス様が教えられた祈り、主の祈りこそ、
- 私たちがどのような信仰に生きるべきかを教えてくれているのです。
→1節以下に、イエス様が弟子たちに祈りを教えられた経緯が書かれています。
「イエスはあるところで祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人が『主よ、ヨハネが教えたように、私たちにも祈りを教えてください』」。
- 弟子の一人が祈りを教えてくださいと言うのです。
- 洗礼者と呼ばれるヨハネが弟子たちに祈りを教えていたので、
- 自分たちもイエス様から祈りを教えてもらいたいと思ったのです。
- 教師となる人たちは弟子に特別な祈りを教えていたようです。
- 自分の弟子なら、このような祈りをしたらよいという祈りがあるらしいのです。
- そこでこの弟子もイエス様に祈りを教えてくださいと願ったのです。
- イエス様がここで教えられる祈りは「主の祈り」と呼ばれます。
- この祈りを祈るのはイエス・キリストを信じる人だけです。
- イエス・キリストを信じる人だけが祈る特別な祈りと言ってもよいです。
- イエス様を信じる者が祈る祈り、それを弟子は教えてくださいと頼んだのです。
→2節。「祈る時はこう言いなさい」。
- イエス様は、このように祈りなさいと具体的に教えられたのです。
- そこで私どもも礼拝で、この主の祈りを祈ります。
- では、主が教えられたとおりに祈ればいいのでしょうか。
- これは祈りです。
- 教えられたとおりの言葉を口に出していればよいというものではありません。
- 祈りですから、内容があります。
- まじないの言葉であれば、意味が分からなくてもかまいません。
- でも祈りですから、その内容が理解されることが必要です。
→3節以下では、「私たち」という言葉が出てきます。
- 「私たち」が祈るのです。これは教会を指します。
- 主の祈りは教会が祈る祈りなのです。
- だから、礼拝の中で祈ります。
- 私どもは教会に連なる者ですから、
- 教会に連なる者として、ひとりの時に主の祈りを祈ることもあります。
- 主の祈りは教会の祈りなのです。
→そして思います。信仰が祈りに現れると。
- 人が何を信じているのかが、その祈りに現れてくるのです。
- たとえばある人が自分の願いごとだけを祈り求めるとします。
- 祈りの最初から終わりまで
- ああしてください、こうしてください、と祈るなら、
- その人は、自分の願いごとをかなえてくれる神を信じているのです。
- 願いごとをかなえてくれるなら、どんな神様でもいいのです。
- 自分の祈りにはどんな信仰が現れているのかを考えてみることは
- 自分がどのような信仰に生きているのかを知る意味で、
- 大切なことであると思います。
→教会が主の祈りを祈るということは、
- 教会が何を信じているのかが表現されているということです。
- 教会に集う人たちは、何を信じているのか、
- 何を大切にしているのかが分かるのです。
- 繰り返しますが、祈りは信仰の表現なのです。
- 信仰は祈りとなって現れてくるのです。
- 私どもは主の祈りを祈るたびに、
- どのような信仰に生きるのかを知らされることになります。
- 教会というのは、何を信じる人の集まりなのかを
- 主の祈りを通して教えられるのです。
- もしあなたが、主の祈りを
- おまじないや呪文のように決まり文句として繰り返しているなら、
- この祈りにはどんな信仰が現れているのか、考えてみてください。
→主の祈りを、その内容を理解した上で、
- 自然なこととして祈ることのできる信仰者、
- 主の祈りを、その内容を理解した上で、
- 当たり前のこととして祈る信仰者、
- そういう信仰者の集いが教会なのです。
- そういう信仰者、それがキリストを信じる人です。
- そして勿論、教会には、この信仰に招かれつつある人もいます。
- その人たちは主の祈りの意味がよくわからないかもしれません。
- この祈りを共にするように招かれていると言うことができます。
- キリストを信じる人は何に関心を持つのか、
- 何を大切にするのかが、明確に、この祈りに表現されています。
→具体的な祈りに入ります。
- 祈りの最初は、「父よ」です。
- これは一番簡単な神に対する呼びかけの言葉です。
- このように短く呼びかける時もありますし、
- 「教会のかしらなるイエス・キリストの父なる神」と
- 長い言葉で神に呼びかけることもあります。
- この呼びかけの言葉は、祈りの最初に言う決まり文句ではありません。
- この「父よ」という呼びかけの言葉は、
- 私たちと神との関係を言い表したものです。
- 私たちは、私たちの父である方に呼びかけ、祈るのです。
- 「神様」と呼びかけることは間違いではありませんが、
- キリストを信じる信仰以外の人々も、「神様」と呼びかけます。
- 「父よ」と呼びかけることによって、
- キリストを信じる人の祈りであることが言い表されます。
- 主の祈りを祈る人は、神が私たちの父、そして私の父であることを
- 告白しているのです。
- 神を父として生きている人の祈り、それが主の祈りなのです。
→次は、「御名が崇められますように」。
- 神の名は、神がいかなる方かを示すものです。
- ですから神が崇められるようにとの祈りです。
- これは賛美の祈りです。
- この神のみが唯一のまことの神であるという賛美の祈りです。
- そして、この神が崇められるようにとの願いとなります。
- 唯一のまことの神が人々から畏れられ、敬われ、礼拝されるようにとの祈りです。
→この祈りには二つの意味があります。
- 一つは、神様ご自身が、ご自分がまことの神であることを現してくださいとの願いです。
- この世の人々は、言うのです。「神はいるのか」。
- 「まことの神がいるなら、なぜこのような不幸が起きるのか。あるのか」。
- だから、私どもは、「御名が崇められますように」と祈り、
- 神ご自身が、まことの神であることを現してくださいと祈ります。
→今ひとつは、私どもを通して神が崇められるようにとの願いです。
- 私どもが、
- まことの神を信じる者にふさわしく生きることができるようにとの願いです。
- イエス様は教えられました。
「あなた方は世の光である。あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父を崇めるようになるためである」。
- 私たちを通して、神が崇められるようにとの願いです。
→聖書には、神の御名を汚すという言葉があります。
- 崇めることと反対の行為です。
- 神を侮辱する、罪を犯す、これらは神をあがめる行為とは真逆のことです。
- 私どもがこのようなことしないように守ってくださいとの祈り、
- これも、御名が崇められるようにとの願いです。
→主の祈りを祈る教会は、神の御名が崇められることを心から願います。
→御国が来ますように。
- 御国とは神のご支配という意味です。
- この世界は終わりの時を迎えます。
- それを終末の時と呼び、神の国が実現する時と聖書は語ります。
- その時、すべての人の目に、神が神であられることが明らかになります。
- 今は、神のご支配は必ずしも明らかには見えません。
- ですから、人々は時に、神も仏もある者か、と嘆きます。
- 信仰者も迫害に遭ったり、苦難に直面することがあり、
- 神の国が来ますように、と祈ります。
- すべての人の目に、神が神であられることが明らかになる神の国の到来、
- これはキリストを信じる人たちの希望です。
→主の祈りを祈る教会は、将来だけではなく、今ここにおける神のご支配を信じるのです。
- 神がおられるようには見えない時、それでもなお、神のご支配を教会は信じます。
- 主の祈りを祈る人は、神のご支配を信じ続けます。
- うれしい時も悲しい時も、
- 楽しい時も辛い時も、
- 神のご支配を信じ、神が共にいますことを信じます。
- それが教会であり、教会に連なる信仰者です。
→主の祈りの最後に「私たちを誘惑に遭わせないでください」とあります。
- 私たちを罪に誘う誘惑があり、信仰を捨てるように、信仰から離れるように誘う苦難、試練があります。
- 神のご支配は、いかなる時、どんな状況においても、私どもの上にあります。
- 誘惑に遭わせないでくださいとの祈りは、私どもの上に、誘惑、試練が来ても、私たちがそれに負けないようにとの願いを含んでいます。
- 神のご支配を信じるゆえの祈りです。
→御国が来ますように。これも賛美の祈りです。
- 神よ、あなたはこの世界を治める神、この歴史を導く神と賛美する祈りです。
- そして教会は、この神を賛美し続けるのです。
- そして私どもも、神のご支配を賛美するのです。
- たとえ、困難の時、苦難の時が来ようとも、
- 神様のご支配がここにあることを信じるのです。
- 困難の時、それは神が生きて働かれる方であることが分かる時なのです。
- 神は生きて働かれる神として、教会の歩みを、
- そして教会に連なる私どもの歩みを支え、導かれるのです。
- 神は生きて働かれるまことの神、と賛美し
- 神様のご支配を信じつつ生きるのです。
- そして終わりの日が来たなら、神のご支配が明白に現れるのを喜ぶのです。
- その信仰に生きるのが、主の祈りを祈る教会です。
- その信仰に生きるのが、キリストを信じる人です。
→「わたしたちに必要な糧を毎日与えてください」。
- これは私どもが生きていくのに必要なものを与えてくださいとの願いです。
- 単純な祈りですが、内容は深いです。
- イスラエルの民が昔、エジプトの国で奴隷として苦しい生活をしていました。
- 神はイスラエルの民を救い、
- 自由に生きることのできる土地へ連れて行くことにしました。
- その時、イスラエルの民は荒野を旅します。
- そこは食べ物も水もない場所でした。
- その時神は、毎日、マナと呼ばれる食物を天から降らせ、
- 民はそれを食べて荒野を旅しました。
- 神は、私どもが生きていくのに必要なものを与えてくださる方です。
- イスラエルの民の中には、明日はどうなるか分からないからと言って、
- 余分にマナを集める者がいました。
- 余分に集めたものは次の日になると腐ってしまいました。
- 神は日ごとに、必要なものを与えてくださるとの信仰を
- 主の祈りによって教会は言い表すのです。
- そして教会に連なる私どもも言い表すのです。
→それ故この祈りは、明日の心配をしないという信仰の表明にもなります。
- 自分の力で明日の不安を解消しないという信仰の表明になります。
- 人は神に信頼するより、自分の力で何とかしようとしがちです。
- そのほうが安心できるし、明日の心配をしないですむように思えるからです。
- 主の祈りは、神に信頼する故に、
- 明日の心配をしない信仰に生きることを言い表す祈りです。
- そして明日の心配のないように神が配慮してくださることを願うのです。
→罪の赦しに関する祈りは、私どもが、神の前に生きる者であることを自覚した祈りです。
→弟子の一人が祈りを教えてくださいと願いました。
- そしてイエス様は祈りを教えられました。
- それを主の祈りと呼びます。
- この祈りには、信仰が言い表されています。
- 信仰は、祈りに現れます。
- あなたが何を祈るのか、そこにはあなたの信仰が現れるのです。
- 主の祈りを自然なこととして祈ることのできる信仰、
- この信仰に生きなさいとイエス様は教えられたのです。
- この信仰に生きる教会に人々を招きなさいと
- イエス様は教えられたのです。
- 神様は、あなたが命を賭けて信頼して大丈夫なほど
- 本当に素晴らしい神さまであることを教えているのが主の祈りです。
祈り
天の父、あなたの真の姿を仰がせてください。聖書が告げているあなたの真のお姿を信じる者とならせてください。そして心からあなたを信じて歩む者とならせてください。真のお姿を仰ぎ、祈る者とならせてください。主の祈りが私たちの心からの祈りとなりますように助けてください。イエス・キリストの御名により祈ります。