聖書 ルカ11:14〜26
説教 神のご支配に生きる
2012/5/6
→イエス様が悪霊を追い出したという出来事が福音書にはよく出てきます。
- 悪霊とは何か、正直分かりません。
- キリスト教書店に行くと、
- 悪霊を実際に追い出している人のことを書いたものがあります。
- 悪霊が実在するらしいです。
- 聖書を読んで確かなことは、悪霊は人に悪さをするということです。
- 今日の聖書では人の口をきけなくしています。
→私が「どうして」と思うことがあります。
- それは人が偽りを信じているということです。
- 創世記3章で蛇にそそのかされてアダムとエバが
- 神が食べるなと言われた木の実を食べました。
- 神は食べるときっと死ぬと警告しましたが、
- 蛇が食べても死なない、と偽りを言いました。
- 蛇の言葉を信じてアダムたちは食べたのです。
- 人間に対して偽りを信じるように働きかける力があるように思います。
- NHKの朝の連続ドラマで、主人公の友人が偽りを信じてました。
- 彼女は夫が戦死し、子供が一人のこされました。
- その彼女のことを好きになり、結婚を申し込んだ人がいます。
- 彼女は、自分は幸せになってはいけないと考え、断るのです。
- 戦死した夫に申し訳ないというのです。
- 「自分は幸せになってはいけない」。これは偽りではないでしょうか。
- 主人公の説得により、彼女は結婚することにするのですが、
- 人は偽りを真理と信じやすいとあらためて思わされました。
- 私には、人が偽りを信じてしまうところに、
- 悪しき力が働いているように思えてなりません。
- 信じている偽りから解放されると人は自由になり、喜びが与えられます。
- このことは今日の聖書とは関係がありませんが、
- 悪霊の働き、ということで私が考えていることの一端をお話ししました。
→イエス様は悪霊を追い出しておられたとあります。
- そして、今、口をきけなくする霊が追い出されたところでした。
- 口がきけなかった人がものを言い始めたのです。
- そこで群集は驚嘆しました。
- 家に帰ったら、今日は驚くべきことを目撃したと
- 語らずにはおれない出来事を目撃したのです。
- するとある人々は、「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」と言いました。
- ベルゼブルというのは悪魔を意味する言葉です。
- これは好意的な反応ではありません。悪霊の親分の力を使っているというのですから、
- イエス様を批判していると言ってよいと思います。
- あるいは16節、「イエス様を試そうとして
- 天からのしるしを求める人がいた」とあります。
- 悪霊を追い出したからと言って、メシア、救い主というわけではない、
- もし救い主なら、しるしを見せなさい、と要求する人々がいたのです。
→17節、「イエス様は彼らの心を見抜いて言われた」。
- 人々が、今ここで起きていることを素直に認めず、
- 受け入れていないことをご覧になったのです。
- そこでイエス様は言われるのです。
- 内輪で争えば、どんな国でも荒れ果てる」というのです。
- 一つの国で、内部分裂があり、権力闘争があれば、
- その国が栄えることはありません。弱まるだけです。
- ベルゼブル、サタン、という言葉が出てきますが、
- これらは神に敵対する力の頭をさす言葉です。
- サタンあるいは悪魔には手下がいるのです。
- それを悪霊と言います。
- 親分であるサタンが、悪霊を追い出す働きをするとしたら、
- それは内部分裂をすることであり、そんなことはあり得ないとイエスは言います。
- そして、ベルゼブルの力で悪霊を追い出したのではないと反論します。
→19節でイエス様はこう言います。
- 「あなたたちの仲間は何の力で追い出しているのか」。
- あなたたちの仲間は、神の力で追い出していて、
- 私はベルゼブルの力で追い出しているとどうして言えるのかとの反論です。
- もし、あなたがたが悪霊を追い出している仲間の人に
- ベルゼブルの力で悪霊を追い出している、と言うなら、
- とんでもないことを言う、
- とあなたがたはあなた方は仲間から、非難されるだろうとイエスは言うのです。
→そして20節で、「私が神の指で悪霊を追い出しているのであれば」と語ります。
→これまでイエス様は、色々な場面で、病気を癒やし、悪霊を追い出してきました。
- 人々は、イエス様がなぜ、奇跡を行うことができるのか、当然考えます。
- そしてイエス様に注目します。そしてイエス様は言うのです。
- 「神の国はあなたたちのところに来ている」。
- これこそ、喜ばしい知らせ、福音です。
- 神の国とは、神のご支配の意味です。
→イエス様は悪霊を追い出しました。
- これは群集が皆、目撃した出来事です。
- しかしこの出来事をどう受けとめるか、それは人様々でした。
- 悪霊の頭の力で追い出していると否定的なことを言う人がいました。
- 天からのしるしを見せなさいと要求する人もいました。
- 恐らく、イエス様が神の力で悪霊を追い出したと信じている人たちもいたと思います。
- この出来事をめぐって、受けとめ方が様々であったことがわかります。
→今日は日曜日で、私どもはこうして集まり、礼拝を献げています。
- 日曜日には、全世界の教会で人が集まり礼拝をしています。
- これも確かな事実、出来事です。
- これは神の出来事と言ってよいのではないでしょうか。
- 神は礼拝のために人々を集めるのです。
- もし神がいなければ、人々が集まるはずはないのです。
- 神を礼拝するために人々が集まる、これは神の出来事です。
- 神のみ業と言ってよいと思います。
→教会に人々が集まり、礼拝を献げているという出来事を
- 世間の人々はどう受けとめているのでしょうか。
- 家族が礼拝に行っていても、自分は教会に行かないという人がいるでしょう。
- 自分は神など信じないし、信じたいとも思わない、と考える人がいるでしょう。
- そして、私は神を信じ、神に礼拝を献げるために日曜ごとに教会に行くという人がいます。
- 教会で礼拝が献げられているという出来事をめぐって、人々の受けとめは様々です。
→あるいは、礼拝の中で説教がなされます。
- 今、皆さんは私の語る説教をどんな気持ちで聞いておられるのでしょうか。
- 礼拝において説教がなされている、これも明らかな出来事、事実です。
- そこで説教を聞く人は、聞いた説教をどう受けとめるのでしょうか。
- これもまた人それぞれの受けとめ方があるように思います。
- ある人たちは、説教者を通して神が語っておられると信じて聞いています。
- 別な人は、聖書に基づき、説教者が信仰の話をしていると考えて聞いています。
- 人間の話として聞いているということです。
- 受けとめ方は人それぞれです。
→神様が語ってくださるのだから、毎週休まずに聞こうという人がいれば
- 信仰の話なんだから、毎週説教を聞かなくてもいいと考える人もいるでしょう。
- 初めて教会に来た人は、神が語っているとは考えることができず、
- 牧師が信仰の話をしていると受けとめるのだと思います。
→信仰者が神に礼拝を献げている。
- 牧師が説教をしている。
- 人を驚かせるようなことは何もありません。
- 教会だから、そういうことをしているんでしょ、と言われれば
- 「その通りです」と答えるしかありません。
- そこでは神のみ業がなされているとは思えない平凡なことです。
- 毎週行われるありふれたことです。
- しかし、静かな目に見えない神の働きがあるのではないでしょうか。
- イエス様が会堂で説教された時は、人々は権威ある教えに驚きました。
- 会堂で病気を癒やし、悪霊を追い出しました。
- これを見ていた人は、神が働いていると思った人が大勢いたことでしょう。
- 信仰者が神に礼拝を献げている。
- 説教者が説教をしている。
- これは、驚くようなことではありません。
- しかし、静かな目に見えない神の働きがあるのではないでしょうか。
→そして私どもは礼拝の場でどういう応答をしているのでしょうか。
- 悪霊を追い出すイエス様の働きを見た人たちは三つの反応をしましました。
- 私どもは礼拝に臨んで、どんな反応を示すのでしょうか。
- ここには、私たちが献げる礼拝をお受けになる神がおられるのではないでしょうか。
- 私どもは賛美を献げ、祈りを捧げ、献金をささげます。
- これらをお受けになる神がおられる、そう信じて私どもは礼拝をささげます。
- 世間の人は、神など関係ない、関心ない、と
- 礼拝に心を向けることはないかも知れません。
- でも私どもは礼拝をします。
→この礼拝で説教がなされます。
- 神が説教者を通して語られると信じて聞く人がいれば、
- 牧師が信仰の話をしているだけと考える人もいるでしょう。
- 実は、神様が説教者を通してお語りになるという出来事が
- 起きているのではないでしょうか。
- つまり、神がここで働いておられるということです。
- いかにも、まさに神が働いているという印象はないでしょう。
- でも神様がここにおられ、働いておられるのです。
- 静かな目に見えない神の働きがあるのです。
→そして、この場にいる私どもも色々な反応をするのです。
- 讃美歌を歌う人がいれば、神を賛美する人がいます。
- 神の言葉として説教を聞く人がいれば、
- 信仰の話として聞く人もいるでしょう。
- 神様がここにおられ、働いておられると信じる人がいれば、
- 礼拝という宗教儀式をしているだけと考える人もいるでしょう。
→イエス様が悪霊を追い出した時、人々の反応は様々でした。
- そして礼拝に集う人の態度も様々です。
- でもイエス様には願いがあります。
- イエス様は言います。
- 「神の国は、あなたたちのところに来ている」。
- 神の国とは神のご支配ということです。
- イエス様は、人々が、神のご支配のもとに来て、
- 神のご支配のもとに生きることを願われるのです。
- 何故なら、そこに人間に対する神の祝福があるからです。
→今、この礼拝においても、神様が願っていることがあるのです。
- 説教者を通して語られる言葉を人々が聞き、
- それに聞き従うことによって祝福を得ることを。
- 神に賛美を献げ、祈りを捧げ、感謝を献げ、神様との交わりに生きることを。
→イエス様が悪霊を追い出したこと、これはそこにいた群集は皆目撃しました。
- しかしイエス様が、救い主であることは誰の目にも明らかなことではありません。
- 信じるか信じないか、それは一人一人の判断です。
- 礼拝がささげられています。そこに神がおられ、礼拝をお受けになり
- 説教者を通して神が語られることは誰の目にも明らかなことではありません。
- 信じるか信じないか、それは一人一人の判断です。
- 静かな目に見えない神の働きがあるのです。
- それ故、「神の国はあなたたちのところに来ている」との言葉は、
- 私どもにも向けられた言葉です。
→神のご支配は、あなたたちのところにある、これが福音です。
- 神は私を守ってくださっていると信じます。
- 神は私を導いてくださっていると信じます。
- 神は私と共にいてくださると信じます。
- もしあなたがこのような告白をするなら、
- あなたは神のご支配のもとに生きているということです。
- あなたは生きて働かれる神を信じているということです。
- そして神はあなたのために働かれるだけではありません。
- ここにいる信仰者一人一人のためにも神は働かれるのです。
→イエス様は言いました。「二人または三人が私の名によって集まるところには、
- 私もその中にいるのである」。
- ですから、信仰者の交わりの中にいると、神様のみ業を見ることができるのです。
- 他の信仰者の証しを聞き、その人に対して神様が働かれたことを知ることができます。
- 他の信仰者が、その人格が神様によって変えられていくのを目の当たりにします。
- 愛のある信仰者の交わりが築かれていくのを見ることができます。
- その中に加えられている喜びを与えられている自分がいます。
- 神様に用いられて教会の働きに喜んで仕えている人がいます。
- 教会は、神が働いておられる場なのです。
- 病気の癒やし、悪霊の追放というような派手なことは起きません。
- しかし確実に神の働きはあるのです。
- 静かな目に見えない神の働きがあるのです。
→そしてイエス様は言います。
- 23節、「わたしに味方しない者はわたしに敵対し、
- 私と一緒に集めない者は散らしている」。
- イエス様の働きの中に、神の力が働いているのを認める、
- その人がイエス様の味方です。
- それを認めない人は、イエス様に敵対しているとの言葉です。
- 教会において現れている神のみ業を認める人、それがイエス様の味方です。
- 教会において働かれる神の働きを見ない人、
- その人はイエス様に敵対する人だというのです。
→そして神のご支配は、教会だけでなく、私どもの生活全部に及ぶのです。
- 神のご支配を信じ、生きるのが、われら信仰者です。
- 神のご支配の中を生きることの幸いを知っているのが、われら信仰者です。
- パウロは祈りました。
- 「神があなたがたの心の目を開いてくださるように。私たち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように」。
- 静かな目に見えない神の働きが、あなたの目の前にあるのです。
私どもを救い、恵みをもって生かしてくださる父なる神、
あなたの働きを見る目を与えてください。
私どもの目を開き、あなたの働きを見る者としてください。
生きて働かれるあなたのみ業を喜ぶ者としてください。
毎週行われている礼拝、私どもの平凡な日々の生活、
これらの中で、あなたが働いておられることを信じます。
あなたのご支配の中に私どもが置かれていることを信じ、
信仰の歩みをすることができるように導いてください。
私どものために生きて働かれる神様を仰ぎ、
神様をたたえることができるように導いてください。
イエス・キリストの御名により祈ります。