クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

 先日、教会員の葬儀を行った。その時、創世記22章をもとに説教を行った。アブラハムが独り子イサクを献げる物語である。アブラハムがイサクを献げるべく刃物をとり息子を屠ろうとした瞬間、神の使いの声が聞こえてくる。「その子に手を出すな」。そしてアブラハムが見回すと雄羊が一匹、木の茂みの中にいて、アブラハムはこれを神に献げた。そして言う。「主の山に備えあり(イエラエ)」。以前の口語訳聖書では、<アドナイ・エレ>とある。葬儀説教を準備しているとき、あるCDを聞いていた。『わたしのイサク』(三上勝久)。このCDの中に「アドナイ・エレ」という曲があり、これを聞きながら、説教を準備した。

全てが満たされてるから 感謝ならば
信仰なんて ちっぽけなものさ
苦しみの中で 全てを委ねた時にこそ
神の栄光が現れる
アドナイ・エレ アドナイ・エレ
神の山には備えがある
アドナイ・エレ アドナイ・エレ
神の山を目指して歩もう


 葬儀の後、ある方が、死んだ母も「主の山に備えあれ(アドナイ・エレ)」とよく口ずさんでいたと言われた。葬儀をしてびっくりしたことに、僕の心にも<アドナイ・エレ>という言葉がどっかり腰を下ろしたのである。僕は60代の後半に入った。神に召されての働きをいつ終えるか、牧師を隠退する時期を決めるのは、難しい問題であるが、その日は来る。その後の生活について考えようとするのだが、考えられない。まだ真剣に考えられない。またどんな生活をするのか、イメージが浮かんでこない。

28日墓前礼拝の後、医王山のフモトで。マキノスミレ


 牧師の場合は、隠退したら、あらたに住む場所を決めなければならない。どこに住むのか。あらためて、人生は旅であることを感じる。アブラハムは神が示す地に向かって旅をした。その旅は、彼にとって信仰の旅の始まりであった。牧師が隠退してどこに住むのか、これはむしろ人生の終焉に向かう旅に思える。また信仰を共にした友たち(教会員)との別れがある。これには寂しいものがある、と想像する。そして新しく住む場所で信仰生活を送るための教会を見つけなければならない。そこでどんな人間関係を築いて生きていくのか。不確定要素が色々あり、不安になる。


 信仰に生きる者として、いたずらに思い煩うことはしない。神さまが共にいてくださること、導いてくださることを信じる。そんな僕に「アドナイ・エレ」という言葉が心にしみ込んできた。