クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

 最近、旧約のヨエル書を読んだ。預言書は、「主を知る」ことがテーマになっているように思える。イスラエルの民が「主を知る」こと。民の中に主なる神がおられることを知ること。そして、我々もまた、イエスが主であることを真に知ることが最大の課題であることを痛感するようになってきた。


 教会は福音を宣べ伝え、伝道し、人を救いに導く。信者の集う教会は礼拝をささげ、信仰共同体、愛の共同体、つまりキリストの体なる教会を形成する。信者が、信仰をもってこの世の旅を全うできるように励まし、慰め、力づけ、そのために互いに愛し合い、信者がキリストの証人として立ち、生きる。そして教会に集う人は時の流れの中で入れ替わる。教会は、いつも途上の歩みをしており、完成に到達することはない。

↑合歓の木の花の蕾

 教会の働きを思うと、その働きの途方もない大きさにめまいがしてしまいそうになる。企業などの組織と違って、教会の働きは、信者の自主的な働きに負う。みなが心を一つにして教会の働きを担うということは、あり得る話しではあるが、あり得ない話でもある。小さな賜物しかない牧師がどれほどの働きができるのかと思う。慰められるのは、教会は、神の事業に仕えているのであり、牧師もまた神の事業に仕えていることである。牧師は社長ではない。牧師の働きが教会の運命を左右するわけではない。神ご自身が教会を導かれるので、それに仕えればよい。ここに慰めがある。


 しかし神に仕えるためには、最善を尽くすこともまた必要である。そして今思うことは、あらためて「イエスを主」とすること、神を「主なる神」として信じること。そのように主イエスを宣べ伝え、神を宣べ伝えること。昨日の礼拝での説教は、聖書に深く教えられた結果の説教だった。特別に目新しいことを語ったわけではないが、信仰について、あらためて自分が教えられたことを福音として語ることができたのではないかと思っている。
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