クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

朝、5時過ぎに散歩に出る。僕はいつもカメラを持っていく。浅野川沿いに生えているある植物がどんな花を咲かせるのか気になっていた。月曜日、花が咲いていたので、写真を撮った。そして今日もまたどんな具合になっているのか、写真を撮った。


取り終わって数歩歩いた時、

「あ、花が咲いている」

という声が、後ろで聞こえたので、振り向き、花のところまで戻った。花について詳しそうな様子だったので

「この花の名前、ご存じですか」。

と聞いた。すると

「多分、イタチハギではないかと思います。確信はないけど」

との返事。すると彼は、ポケットからナイフを取り出し、花の咲いている茎をナイフで切り、

「家に戻って調べてみます」。

ただ散歩するだけではなく、植物に関心を持って散歩をしている人もいる。僕は写真を撮って、後で名前を調べるのだが、今回は、名前を教えてもらったので助かった。インターネットでイタチハギで検索したら、見たのと同じ花の写真で出てきたので、名前は特定できた。

最近考えていることは、福音って何かということ。僕は牧師に召され、福音を伝えることを働きとしている。福音は人を悔い改めに導き、信仰を与え、人を生かす。神に仕え、教会に仕え、世の光となり、地の塩となって生きるように信仰者を導く。さらに神を愛し、隣人を愛して生きる人に導くと僕は信じている。神さまは、この世に福音を伝えるために僕を用いてくださっていると信じるわけだが、現実に教会員は信仰者として、どんな人になり、どんな生き方をしているのか。


僕が願っているとおりの信仰者の歩みをしているなら、僕の語る福音が福音として受け取られ、その福音が聞き手を生かしていることになる。でも注意しなければならないのは、聞き手が、僕が理解した福音に生きる信仰者になっているとしても、僕が聖書が告げる福音をそのままに伝えているかどうかは別問題である。


僕が願っているとおりの信仰者の歩みをしてしていないとしたら、どう考えたらよいのだろうか。僕は福音をちゃんと語っているのに、聞き手がきちんと受けとめていないということなのか。それとも僕が語る「福音」は、福音となっていないので、これを受けとめる聞き手は、福音を聞いた信仰者の生き方ができないのではないか。


木を見て森を見ないという言い回しがある。説教者は、聖書の一部の箇所を取り上げて説教をする。その箇所から福音を語るように努める。今日は、Aという箇所から、次週はBという箇所から。その次は、Cという箇所から。それぞれの箇所から福音を語っていても、なされる説教に一貫性があるかどうか、と考えさせられている。一貫性に欠けると、聞き手は戸惑いを感じるのである。


たとえば、主イエスは奇跡を行い、神が生きて働かれる神であることを証しされる。病気で苦しみ、悪霊に取り憑かれて苦しんでいる人を主イエスは癒やす。

神はあなたと共におられます。神は苦しみの中にあるあなたに解決を与えることのできる方です。神のもとに来て、神と共に生きていきませんか。

と信仰に招く説教をする。しかし次の箇所を見ると、主イエスは、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と語る。

私たちも主に従う歩みをしましょう。

と主に従うことへの招く説教をする。信仰への招きの説教と、主イエスに従うことを招く説教が続けてなされるとしたら、聞き手はどう思うのか。戸惑いを感じるのではないのか。この戸惑いはどう解決されるのか。自分は、この戸惑いをどう乗り越えているのか。これを明確にすることも必要だ。福音は、この戸惑いを解決する内容を持っているはずであり、あらためて福音とは何かを考えさせられている。


主イエスは次のように語っておられる。

自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。

確かに、ここには、主イエスに従う理由が示されている。主イエスに従うことが自分の命を救うことになる。だから、主イエスに従おう! と語ることは福音となるのだろうか。律法主義に陥らないだろうか。


自分の命を救おうとする者はそれを失い、主イエスのために命を失う者はそれを救うことをきちんと説教すればよいのだという、考えもある。でももっと根本的には、信仰って一体何なのか、という問いもある。福音とは何か、信仰とは何か。そんな基本的なことを今になって、考えている。