クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

 今年も北陸らしい冬が来たみたいです。先週は、雨が降り続きました。今日は雨が降り、とても寒い一日でした。晴れの日が少ない、青空が見えない。いささかストレスになります。勿論大したことはありませんが。


 先週土曜日、地区の信徒大会がありました。その中で、講師が「信仰とは神との交わりである」と話されました。全くの同感です。聖書にそのことは書かれているのですが、この理解は、私たちの間で広がっていないように思います。どうしても<私のため>の信仰になってしまいがちなのです。神さまは、<私のために>働いてくださることを求める信仰です。祈りは常に、私のために何かをしてください、という祈りとなります。信仰が交わりであるなら、私が神さまのために何をするのか、神様のみ心にどう答えるのか、そもそも神さまの思いにどれほど関心を向けているのか。

↑朝、散歩に出るときの空模様


 <私のために>という信仰は、今に始まったことではなく、聖書を見れば、至る所に書かれています。イスラエルの民は、神様のみ心に関心を持つことが少なく、いつも自分の思いに生きていました。


 神との交わりに生きる信仰を育てる、これは大きな課題です。不覚にも、信仰とは神との交わりであることをはっきりと自覚したのは、昔のことではありません。私自身、そのように教えられたことはなく、ある時、ふと気づかされたのだと思います。その<ある時>がいつなのかは、思い出せません。そういう理解が少しずつ心の中で育っていったのだと思います。


 牧師という務めは、成功を求めてなす務めではありません。求められるのは忠実であることです。人間ですから成果を求めますが、これは思い通りになりません。常に忠実であること。祈りは、成果を願う祈りではなく、自分の現状を神に告げ、神の導きを求める対話的な祈りとなります。勿論、様々な願いは祈りますが。