クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

あってはならないことであるが、もう一度原発事故が起きたとしたら原発は存続できるのだろうか。恐らく不可能だろう。


 自動車や飛行機は便利なものである。しかし事故を起こすし犠牲者も出る。絶対に安全という保証はない。しかし社会は自動車も飛行機も、これを受け入れている。なぜ受け入れているのか。

  • 一つには、事故が起きた場合の保障の制度がある。
  • 第二に、被害の規模が限定されている。
  • 第三に自分は事故に合わないと人は漠然と考えている。飛行機に乗らなければ、飛行機事故に遭うことはない。自分の裁量で事故を避けることはできる。

 しかし原発の近くに住んでいれば、原発事故に遭わないための努力は何もできない。二度目の原発事故が起きたら、原発の存在は一挙に人々を不安に陥れる。この不安を感じる人たちに「恐れる必要はない」とは、だれも言えないだろう。それ故もう一度原発事故が起きたとしたら原発は存続できないだろうと考える。


 とすれば、二度目の事故が起きたらやめざるを得ないものを、安全が確認できたからと言って、原発の再稼働をすることに正当な理由はあるのだろうか。


 再稼働を進める人たちは原発を稼働させないと電力不足になり、工場の稼働ができなくなり、日本の経済活動に支障をきたす。支障が起きないようにする責任が自分たちにあると主張する。しかし二度目の事故が起きたら、原発の稼働はできなくなり、電力不足の問題が生じる。それなら今、原発に代わる代替エネルギーの開発を積極的に推し進めるのが賢明で誠実な判断である。その方が代替エネルギーの技術開発で先行し、日本の経済の成長に利する。


 原発は安全であると原子力規制委員会が判断したから再稼働するというのであれば、それは責任転嫁になる。つまり自ら安全だと言わずに、規制委員会に言わせることになるからである。ちなみに原子力規制委員会は、その組織理念として、

原子力にかかわる者はすべからく高い倫理観を持ち、常に世界最高水準の安全を目指さなければならない。

と掲げ、原子力規制委員会は、

何ものにもとらわれず、科学的・技術的な見地から、独立して意思決定を行う。

とある。
規制委員会は原発の安全については科学的・技術的な見地に立って判断するが、原発を再稼働化するかは、最終判断者の倫理観にゆだねると述べている。最終判断者が、原子力規制委員会が安全と言ったから再稼働をすると言えば、最終判断者は自分の倫理的責任を放棄することになる。


 電力会社の経営者も、日本国の首相も時間がたてば交代する。今再稼働をして、将来事故が起きるとしたら、今再稼働を決める者たちの責任はどうなるのだろうか。おそらく彼らの責任は問われない。自分は責任を問われないのに再稼働を推進するのは、いかがなものか。


 それなのに敢えて今なお再稼働を進めるとするなら、そこには進める人たちの利益追求という目的しか理由はない。電力会社、政治家、官僚の利益。


 そこで二度目の原発事故が起きたら、原発は存続できないことが確かであるなら、この前提が確かであるなら、今、一度しか事故が起きていない時点で原発を再稼働させることを、聖書に立って考えるとどうなるのか。


 神は<自分を愛するように隣人を愛しなさい>と教える。自分の利益を追求して人の安全を犠牲にする、これは愛の教えに反する。また賢明で誠実な判断をしない、これは神の前に怠惰、無責任となる。聖書を持ち出さずとも、再稼働をすることを正当化する理由はないように思える。