クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

昨年12月はクリスマスを覚えて、ルカ福音書の1〜2章を取り上げて説教しました。その折りに、一番心に深く留めさせられたのは、マリアの賛歌です。

わたしの魂は主をあがめ、/わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。
身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も/わたしを幸いな者と言うでしょう、
力ある方が、/わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、
その憐れみは代々に限りなく、/主を畏れる者に及びます。
主はその腕で力を振るい、/思い上がる者を打ち散らし、
権力ある者をその座から引き降ろし、/身分の低い者を高く上げ、
飢えた人を良い物で満たし、/富める者を空腹のまま追い返されます。
その僕イスラエルを受け入れて、/憐れみをお忘れになりません、
わたしたちの先祖におっしゃったとおり、/アブラハムとその子孫に対してとこしえに。

なかでも次の言葉が心に留まりました。

主はその腕で力を振るい、/思い上がる者を打ち散らし、
権力ある者をその座から引き降ろし、/身分の低い者を高く上げ、


 年末、安倍晋三首相が靖国神社に参拝しました。中国・韓国からは抗議の声があり、アメリカ政府からも安倍首相の行動に失望したとの声明も発表されました。安倍首相は国のために殉じた英霊に尊崇の念を表すのは、国の指導者として当然であると、参拝の理由を語りますが、日本が隣国に侵略した事実を彼は認めません。そして中国、韓国を傷つけるつもりはまったくないと語ります。私はこれは傲岸不遜な態度だと思っています。


 よく使われるたとえがあります。混んだ電車の中で、だれかが足を踏まれて

「痛い」

と叫びます。足を踏んでいると指摘された人は「私は人の踏みつけるつもりはないし、踏んでいるとも思っていません」と言うのです。踏むつもりがなければ踏んでいないのか、踏まれた人が痛いと叫んでいれば、踏んでいるのです。


 安倍首相の態度は<隣国の人々の思いを傷つける思いはないし、傷つけていない。痛いというのは誤解だ>と語り、人の気持ちを理解しようとしない思い上がった態度です。自己中心的な歴史理解の認識、隣国との関係の維持に無関心な態度。それどころか、隣国との緊張関係を自ら生み出し、国家防衛の危機感を作り、集団的自衛権自衛隊国防軍化などを推し進めようとしているのは、国家の指導者としてふさわしくないと思います。


それ故、僕は

神さま、あなたは思い上がるものを打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろす方です。安倍首相を首相の座から引き降ろしてください。

祈りつづけています。


 自民党憲法改正草案の本質は、日本国を<神>とする偶像国家の形成にあるを僕は見ています。国民は皆、この神に仕えるのです。大祭司である安倍首相は国家のために殉じた人の霊に尊崇の念を表すのは当然です。それは次に、あなたがたも国家のために殉じなさいと無言で告げていると僕は考えています。誰だって自分が信じる神は尊いのです。彼は、日本国という神に忠実な大祭司であり、自分ほど忠実に神に仕えている者はいないと思っていて、人が自分の行動についてとやかく言うのは、みな誤解だと思っているのです。誤解を解くために説明をすると言いますが、説明をしているようには思えません。


 アベノミクスで日本の経済を復活させようとしています。悪魔は主イエス

「わたしを拝めばこの世の栄耀栄華みな与える」

と誘惑しました。経済の復興を成し遂げてくれるからと言って、この政権を支持してはいけないと考えます。それは悪魔に魂を売ることです。経済的には豊かでも日本国という神に奉仕させられるよりも、貧しくても真の神さまに仕える方を僕は選びます。