クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ


『「日の丸・君が代」問題を考えるシンポジウム―教会は「日の丸・君が代」強制の問題といかに向き合うべきか』を読みました。


 まず三つの出来事が紹介されます。
 第一の出来事は内村鑑三の不敬事件です。1890年(明治23年教育勅語が発布されました。内村が務めていた第一高等中学校には、天皇の署名入りの勅語が交付されました。直々の署名入りの勅語です。1891年1月9日全教員、学生出席のもとに勅語の奉読式が行われます。その時「御真影」(天皇の写真)の「奉拝」、勅語の「奉読」、勅語の「奉拝」が行われ、教頭以下、教師が順番に前に出て拝礼を行いました。
 内村は他の人にように深々と頭を下げて拝むことをせず、わずかに頭を下げる動作をしました。この振る舞いが「不敬」として問題にされ、内村は教師の職を失いました。

 第二の出来事は神学者のカールバルト。1933年に政権を取ったナチ党は「官吏および国防軍兵士宣誓法」を定めます。

私は宣誓します。私は、ドイツ帝国と民族の総統アドルフ・ヒトラーに忠実に従順であり、法律を尊重し、私の職務を良心的に果たすことを誓います。神よ、私を助けてください」。

 当時ボン大学神学部の教授であったのでバルトにもこの宣誓が求められました。彼は誓約文に条件をつけました。「アドルフ・ヒトラー<私が福音主義キリスト者として、それに責任を負いうる限り>忠実で、従順であり」。バルトは宣誓を拒否したのではなく、条件をつけたのです。しかし、バルトは、宣誓を拒否したとして、職務停止処分を受け、懲戒裁判にかけられました。

 第三の出来事は現代。東京、大阪で顕著な「君が代斉唱の」強制です。入学式、卒業式で、教師は、起立して国歌を斉唱することが職務規律として教師に求められるようになり、これに従わない場合、職を追われる事態が生じています。嫌なら教師を辞めなさいと言われます。
 教師の側から、これは思想・良心の自由に反すると裁判を起こしました。最高裁判所は「公務員に対する職務命令は、憲法十九条に定める思想・良心の自由を侵害するものではない」との判決を出しました。


以上が本の紹介です。
自分の良心に反するようなことを職場で求められたどうするか。特にクリスチャンが神ならぬものに礼拝を献げられることを求められたときにどうするか。形だけ歌えばよいと考える人もいるし、良心のとがめを感じると言って、できない人もいます。この問題に対して教会はどう行動するのか、この問題で孤立化する当事者に教会はどう支援するのか。そんなことがテーマの本です。本の副題は、『教会は「日の丸・君が代」強制の問題といかに向き合うべきか』。

 僕がこれを読んで思う第一のことは、キリスト教信者は日本では少数であり、信仰者の訴えはなかなか理解してもらえない現実があるということです。
 第二に、日本はまことの神ではないものを<神>とする異教社会であるということです。端的に言えば<国>を<神>とする社会であるということです。70年以上前、<お国のために>という理由で国民は命を捧げることを求められ、多くの若者が命を奪われ、家族は愛する我が子、兄弟を奪われたのです。<お国のために>と心から喜んで自分の命を差しだした若者はどれほどいたのでしょうか。<お国のために>と心から喜んで我が子を見送った親がどれほどいるのでしょうか。<お国>という神の前にひれ伏さざるを得なかったのです。そして<お国>という神は、今も生きています。


 1999年に「国旗及び国歌に関する法律」が定められました。

第1条 国旗は、日章旗とする。
第2条 国歌は、君が代とする。


 <お国>のためにと語る人々は、日本という国を愛していると主張します。それは本当なのだと思います。しかしこの人々は自分が<お国>を神とする信仰に生きているとは思っていません。聖書的に言えば、<お国>を神とする偶像礼拝がこの国で行われ続けているのです。私たちの戦いは、政治的な主義主張の戦いではなく、霊的な戦いであることを思います。

わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです(エフェソ6:12)。


 教会にとって、まことの神を宣べ伝える伝道こそ、いつでもどこでも戦うべき戦いであると考えます。伝道は戦いであることを覚えたいと思います。