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隠退牧師 holala によるブログ

死刑について

朝、創世記9章を読みました。そこにこう書かれていました。

また、あなたたちの命である血が流された場合、わたしは賠償を要求する。いかなる獣からも要求する。人間どうしの血については、人間から人間の命を賠償として要求する。人の血を流す者は/人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られたからだ。

 死刑という制度の是非の議論があります。私は死刑という制度をどう考えるか、自分の考えを明確にしてきませんでした。今も明確ではありません。殺された被害者の家族の感情を考えれば、死刑という制度はやむを得ないと考えることができるし、具体的な事例でいえば死刑判決が冤罪の場合もあるし、犯罪抑止力になっていないし、犯罪者といえどもその生命を人が断つことができるのか、という反対論もあります。万が一、私もしくは私の家族が殺人者となったら、死刑はいやです。死刑という制度の是非の議論は、おそらく果てしなく続くと思います。


 なぜ人を殺してはいけないのか。これは簡単に答えられない問題と言われています。私たちは、直感的に殺人はいけないと考えます。しかし国家は戦争を行い、人を殺すことを兵士に命じます。国家には人を殺す権利があるのでしょうか。国家は、死刑という制度を法律で定めることがあります。人を殺してはいけないなら、死刑という制度も否定されるべきです。国家が、人を殺すことを命じることができる理由は何なのでしょうか。


 私は聖書の言葉に立って考えようと思っています。今日創世記の言葉を読んで、死刑という制度について、自分の考えをあいまいにしておいてはいけないと思いました。今日の聖書によれば、人の血を流す、つまり殺人がなぜいけないのか、理由がはっきり書かれています。神にかたどって造られた人間を殺すのはよくないと神は考えています。つまり殺人は、神に対する冒瀆行為であり、それ故、許されないと書かれています。人の血を流した者は、人によって自分の血を流される、つまり死刑にされると書かれています。神は、死刑という制度を認めているのでしょうか。死刑という制度の是非を論じる前に、神にかたどって造られた人間を殺すのはよくないと神が考えられていることをきちんと考えることが必要だと思います。


 神にかたどって造られたとは、人間は他者との関係の中に生きる存在だということです。人は関係的存在です。それ故、他者との関係を断つことを罪と神は考えます。殺人は、この関係を完全に断ち切ることを意味します。殺された被害者は、親との関係、家族との関係、友人との関係、色々な関係の中に生きてきましたが、それらの関係を一気に断ってしまう。それが殺人です。殺人は人の命を奪うことだけではなく、被害者と関わりのある人たちからも、大切なものを奪う行為です。


イエス・キリストは次のように語っています。

「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」(マタイ福音書5章21〜22節)。

兄弟を侮辱することは殺人に等しいと教えているように思います。兄弟を侮辱すれば兄弟との関係が壊れます。人間の生の実際の営みにおいては、他者との関係を傷つけることがあり、傷つけられることがあります。他者との関係を破壊する行為は、殺人に等しい罪であると主イエスは教えているように思えます。


 今日の聖書黙想はここまでです。