クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ


昨日に続いて、「十六時四十分」(藤掛明著)を読み、線を引いた言葉をいくつか紹介します。以下、引用です。


 抗がん剤治療中、色々な方から体調を尋ねられた。それは大変ありがたいことであった。しかし、そこでなんと答えるのかは難しいことである。「病気で無理ができない」「治療の副作用が大変だ」ということも本当のことであるし、他方「一定の仕事ができる」「副作用も波があってうまくあわせられるようになってきた」ということもまた本当のことであった。この二つのどちらもが同時に相手に伝わることはない。どちらか片方の情報がより大きく伝わり、印象付いてしまうように思えた。
 このことをさらに考えると、そもそも自分の現在の状況をどう受けとめているのか、今の体調をどう自己評価するのかという自分自身の問題でもあった。「頑張れます」も「できません」もどちらも本当のことであって、自分に、どちらも同時に存在すると考えるのが本当なのである。闘病者はこの二極の中間を生きている。


 楽観的に考えなければ希望がなく元気が出てこない。しかし、悲観的に考えておかないといざというとき取り返しがつかなくなる。そして多くの場合、どちらもあり得るのである。だから、刻々と変わる状況や症状の中で、その都度、悲観と楽観の双方を真剣に受けとめていくしかないように思うのだ。


 地上の生涯を終えたとき、天の御国に私は継続した自分を持ちながら入ることができるのであろうか。あるいは、天の御国では、地上でも経験や生き様がリセットボタンを押すように白紙から始まるのであろうか。
 ある老牧師と帰路の電車の中でご一緒する機会があった。私は良いチャンスと思い、その尊敬する牧師に、天国の話しについて質問させていただいた。それは<地上の生活と、死後、天国の生活に連続性があるのかないのかということである>。
 その老牧師は、すっと聖書を出して、あざやかなくらい端的に聖書の箇所をいくつか示してくださった。解答や解説というよりは、聖書そのものを伝えていただいたと感じた。


 私はクリスチャンとして、神さまに病気のことを祈る。色々と祈るのであるが、ある時から病気については、「この命を支えてください」「今日一日をお願いします」と祈るようになった。今後変わっていくかも知れないが、今私がいる階段の踊り場での祈りである。


 ある程度進行したガンの場合は、治療も延命であったり、痛みの緩和であったりするもので、病に勝つ目はない。だからこそ病と折り合う気持ちが大切になってくるのだと思う。戦う気持ちが強いと、病に陥っている自分に対して本来の自分ではないと違和感と拒否感を持つ。逆に折り合う気持ちがあると、こういう弱い心細い自分が実はあったんだなあと慈しむことになる。


 「病も身のうち」に生きると言うことは、決して戦わないことではない。死と病と闘うというよりは、与えられている生の部分に戦いを挑む感じではないだろうか。
 おそらく私には人が驚くような使命は与えられていない。ただ、自分の思惑と一致するにしても、異なるにしても、このような一つ一つの小さな使命を重ねていくことが待っているのだと思う。