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隠退牧師 holala によるブログ

平和を実現する道

聖書・エフェソの信徒への手紙2章14〜17節。

実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。エフェソの信徒への手紙2章14〜17節。

聖書は、和解による平和の実現を教えています。今の日本の現実はどうなのでしょうか。


憲法の第99条にこう書かれている。

天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。

そして憲法の前文には、以下のような<決意>が書かれている。

 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。

 歴代の自民党政権は、集団的自衛権憲法に違反すると考えてきた。つまり戦争に巻き込まれる事態を避け、戦争に関わることをしないことを通して平和を求めてきたといえる。しかし今の安倍政権はどうだろうか。憲法に書かれた決意はないがしろにし、近隣諸国との緊張関係を作り出し、対策の必要性、つまり集団的自衛権を主張している。この理屈はマッチポンプと言ってよいのではないか。マッチポンプとは、ウィキペディア(インターネット上にあるフリー百科事典)によれば次のように説明されている。

「マッチで自ら火事を起こして煽り、それを自らポンプで消す」などと喩えられるように、問題や騒動について、自身でわざわざ作り出しておきながら、あるいは自身の行為がその根源であるにもかかわらず、そ知らぬ顔で巧妙に立ち回り、その解決・収拾の立役者役も自ら担って賞賛や利益を得ようとする、その様な行為を指して用いられる表現である。

 つまり自分勝手な理屈なのである。安倍首相は積極的平和主義を唱える。積極的とは何を意味しているのか。「平和」という言葉が使われているものの、その実態は憲法の平和主義を捨て、軍事力の行使をいとわない安全保障戦略を指すのではないか。集団的自衛権はその一環となる。


 その行く手に待っているのは、平和憲法の廃棄、自衛隊の軍隊化である。すでに自衛隊は、装備という点では軍隊と呼んでも遜色のない軍事力をもっている。ただこの軍事力は自衛のためにしか用いないゆえに、軍隊ではない、とされている。安倍首相は、強大な軍事力を持ち、他国からの侵略にも耐えうる強い日本を目指しているのだろうが、憲法が定める平和主義に忠実であるとは思えない。


 憲法の前文は理想主義と決めつけ、理想を追求することをしない。憲法99条不作為犯と言ってよいのではないか。人というのは理想に生きるものではないか。他国から攻められたらどうするのか、と恐れを持ち出し、軍隊の必要性を説く人もいる。僕は恐れから自由になりたい。他国をもしかしたら侵略するかも知れないと疑い不安にとらわれるよりも、他国の公正と信義に信頼する道を選びたい。アジアでは、日本が侵略した歴史を持つ。神は言われる。「恐れるな」。隣国との和解に生きることこそ、私たちが、そして憲法の前文が教える道ではないか。


↑アカネスミレ 諏訪湖近辺