クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

 聖書を読む

 色々な折に考えさせられることがあります。信徒が聖書を読む力を身につけるように牧師は指導しているのでしょうか。実はこの努力は弱いのではないか、と考えています。昔先輩から、説教を聞いて聖書が読みたくなるような、そういう説教が良い説教だと聞いたことがあり、忘れられない言葉になっています。僕は説教で有名な人の言葉の引用はほとんどしませんが、聖書の言葉の引用は毎回必ずしています。


 私の周囲にある多くの教会では、週の半ばに祈祷会をしています。そこでは聖書の学びも同時になされ、その後、祈る時が持たれています。牧師はその時に読まれる聖書についてあらかじめ学び、その箇所の聖書が何を教えているのかを参加者に教えます。パソコンのおかげで教える内容をプリントし、参加者に配付することは容易です。そのプリントはいつでも手元に置いて読むことができます。そのようなプリントの配布は牧会的ということができます。親切です。かつて僕もそのようにしてきました。


 牧師は一生懸命準備しています。しかし盲点があるのではないでしょうか。参加者は受け身になってしまいます。つまりいつも<教えてもらう>ことになります。自分で聖書を読み、そこから何かをつかみ取るということができなくなってしまいます。信徒が聖書を自分で読むと<勝って読み>をすることになると考えて、信徒が自由に聖書を読むことを危惧する牧師もいます。


 公教育でも自分で考えることのできる人を育てることの重要性が求められているようです。教会に即して言えば、聖書を自分で読み、聖書から教えられ、聖書によって生きることのできる人を育てることが求められています。


 敬愛する加藤常昭牧師は、「信徒には聖書を読む力がある。聖書を読むことをむずかしくしているのは、神学者、牧師ではないか」と語られます。「そもそもあのローマの信徒への手紙だって、もともとは教会で朗読された手紙であり、いちいち解説付きで読まれたわけではない」と語られます。信仰は複眼的な視点が大切で、いつでもバランスが大切となります。

  • 聖書の意味を正しく教え伝えることは大切。
  • 信仰者は自分で聖書を読み、理解することは大切。


 両者のバランスが大切です。このことに気づいている牧師は、そんなに多くないような気がします。今僕は祈祷会で何をしているかというと、質問を投げかけることに心がけています。聖書の理解を助ける質問です。聖書の解説はせず、参加者が聖書を読んで自由に発言をするようにしています。そのような話し合いの中で、質問を投げかけ、聖書の教えに参加者が気づいていく、発見していくようにと願って質問を投げかけています。僕は今の祈祷会が好きです。楽しいからです。これは女性の多い午前の祈祷会のことです。



↑新鮮なトマトを買い、パスタを作りました。ニンニクとトマトを炒めてパスタを混ぜるだけ。