クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

ダニエル書を読みながら

 教会の夜の祈祷会ではダニエル書を読んでいます。ダニエル書は紀元前二世紀のアンティオコスエピファネスによる迫害、弾圧状況にあるユダヤ人のために書かれたものです。今流に言えば、聖書を読み、神に祈っているのを見つけられたら逮捕されるような迫害状況です。まして礼拝など行える状況ではありません。そのような状況の中で、命を賭けて、いや命を失うことを覚悟の上でなおも信仰を貫くことができるとするなら、それは何故なのでしょうか。そもそも信仰とは何なのかという問いが生まれます。このような迫害下にあって、命を守るために信仰者としての歩みは横に置き、つまり迫害を逃れ、しかし迫害が終わったら、また信仰者としての歩みを再開するのではいけないのか。それが問われます。今週の祈祷会で、参加者の一人が、ダニエル書のメッセージを今生きる私たちが受けとめることが大切と語られたことはうれしく思いました。


 ダニエル書には、迫害の中にあって命を失うことがあっても屈しない信仰に生きることが奨励されます。また同時に、神がこの歴史を支配していることが強調されています。アンティオコスの迫害、弾圧は一時のものなのです。


 ヨブ記もそうですが、私たちは何故神を信じるのか、問われます。そして私が得た結論は、神が神であるから、信仰を貫く、という結論です。信仰とは、神との交わりであり、神と共に生きることです。神と結ばれて生きることです。神が私の神となってくださり、私は神の民として生きる。これは外的状況が何であれ、変わることはないし、変えてはならない、そう考えます。


 たとえて言えば、私は、今妻と共に生きています。もし私に妻と離婚するように命じるものがあったとしても、離婚しなければ命を奪うと言われても、あるいは日本がある国の支配のもとに置かれ、その国の女性を結婚しなければ殺されると命じられたとしても、私は妻と離婚はしません。私は妻を自分の妻として選び、神が与えてくださったと信じて妻としています。何があろうと妻はわたしの妻であり、どんな事情があろうと、この妻と分かれて別な女性を妻とすることはできません。それは、妻がわたしの妻だからです。妻と妻としないこと、それは私が私でなくなることです。


 神との交わりに生きる者は、たとい迫害、弾圧があろうと、神を神としないことはできません。神を本当に私の神とするなら、外的な状況が何であれ、神を神としないことは考えられません。神を神としないなら、私は私でなくなります。迫害、弾圧という厳しい状況は、私たちに、何故神を信じるのか、神とは何なのかを鋭く私たちに問いかけます。


 迫害があろうがなかろうが、私たちは常に、神とは何か、問われています。迫害がなければ、あいまいにすることができますが、迫害下では、あいまいにできません。信仰を貫くか、捨てるか、鋭く問われます。そんな事態にならないことを願いますが、それ故、今、真剣に信仰に生きたいと思います。



↑先日霧ヶ峰に行った時、宿にお願いして作ってもらった弁当です。
細長いおにぎりです。海苔の内側に薄い卵焼き、その中は、ご飯ですが、具として鮭が入っています。