クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

 今朝、ヤコブの手紙を読みました。1〜3章まで。先日テモテの手紙二を読んだ時、パウロがテモテに「だがあなたは、自分が学んで確信したことから離れてはなりません」と述べていました。それで自分が学んで確信したこととは何かを思い巡らしました。その時に思った私の確信とは、み言葉を行うことの大切さです。主イエスも私の言葉を聞いて行う人を賢い人に例えています。そして今日読んだヤコブの手紙もまた同じ事を語っていました。

「み言葉を行う人になりなさい」。

 長年牧師をしてきて思わされることは、<み言葉を行う人になるように>どれほど教会で語られてきたか、ということです。聖書の学びは熱心に行われていますが、み言葉を行うことの勧めは強調されていないように思います。それ故、信仰が知識になってしまいます。
 先日牧師会である牧師が語りました。

「祈祷会で証しをお願いしたら、受洗した時のことを語るんだよね。何十年も前のことだよ。証しといったら、最近の話し、まあ二年以内のことを語って欲しいよね」。

 み言葉を行わないから、証しも生まれない、キリストを伝える言葉を持たない。これが伝道が振るわない教会の現実ではないかと思います。知識的な信仰の教会の刷新をいかに行うか、容易ではない課題です。このために私は、デボーションの学びを折に触れて教会で行っています。石川地区の青年会の活動として月一回、デボーションの会を開いています。若い人たちがみ言葉を行う人になることを願っています。